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■■■ 日本の基底文化を考える [2018.7.13] ■■■
鳥崇拝時代のノスタルジー[3]
−国家観が生まれると、鳥信仰は消えるのかも−

「古事記」《下巻》冒頭では律令国家化開祖として仁徳天皇が描かれている訳だが、このシリーズでは、《中巻》末尾を含め事績部分が鳥オンパレードという話から始めた。せっかくだから《中巻》に記載されている鳥名も見ておこう。

《中巻》は、誰でもが知る、所謂、"神武東征"から始まる。
 ●神倭伊波礼比古命-八咫烏●
神倭伊波礼比古命[神武天皇]が熊野から大和へ侵攻するにあたり、高木大神が八咫烏を遣わし熊野〜吉野の山中険路を先導させ、吉野河上流に到達することができた。
さらに、その宇陀の地で使い役も果たす。
大陸では3本足の烏太陽運行役であり、天照大御神の力を発揮させるように最高神が命じたということになろう。
烏の案内役信仰は確立していたようだ。九州北部[うきは]にある6世紀後半と推定されている烏珍敷塚古墳と鳥船塚古墳[横穴式石室型]は破壊されてはいたが、奥壁に絵画が残存。人物が乗った船の舳先/艫に烏らしき黒い鳥が止まっている。弁慶ガ穴古墳@熊本山鹿の側壁画にも。

結局、土着の兄弟のうち、従わない兄は弟の密告で死亡。平定で大宴会となり、歌が詠まれる。・・・
 宇陀の 高城に (しぎ)罠張る
 我が待つや 鴫は障(さや)らず
 いすくはし (くじ:「萬葉集」使用渡来通俗語)ら 障る
 前妻(こなみ)が 肴乞(なこ)はさば
 立柧(たちそば)の 實の無けくを こきしひゑね
 後妻(うわなり)が 肴乞はさば
 (いちさかき)實の多けくを 許多ひゑね
 ええ しやごしや 此は伊能碁布曾(いのごふそ)
 ああ しやごしや 此は嘲咲(あざわら)ふぞ。
旅鳥のシギ捕獲の目論見だったが、シギはかからずに、倭で獲物を狙っている渡来のタカが獲れたというだけの戯れ歌。上首尾に平定できたが、はたしてそれに大喜びするほどの意味があるのか、といったところか。

 ●神倭伊波礼比古命-鵜飼●
大和 磯城の地(桜井)で土豪 兄師木と弟師木を撃退した時
御軍暫く疲れ、神倭伊波礼比古命が詠った歌
 盾並べて 多多那米弖
 伊那佐の山の 伊那佐能夜麻能
 木の間よも 許能麻用母
 い行き目守らひ 伊由岐麻毛良比
 戦へば 多多加閇婆
 我はや飢ぬ 和禮波夜惠奴
 島つ鳥 志麻都登理
 飼が伴 宇上加比賀登母
 今助けに来ね 伊麻須氣爾許泥
鵜飼の部民が供する魚が欲しくなったということでもなかろう。鳥のなかでも、鵜を特別扱いしている部族であることを吐露している訳である。次の話も含め、軍勢は南方海人風俗を受け継ぐ勢力だらけだったのは間違いなさそう。
尤も、吉野河の河尻辺りでの、筌を作って魚を取る人との出会いを言っているだけかも。
 「私は国神で、名は贄持之子と申します。」
   [これは阿陀の飼の部の祖先]

 ●勢夜陀多良比売-ト利●
スサノオ命の子孫たる大国主命の和魂である三輪の大物主神と勢夜陀多良比売の娘、(もともとの名前は"陰処多多良")伊須気余理比売命は天皇求婚の仲立ちで訪れた大久米命に対して歌を詠む。・・・
 あめ鳥(胡子=雨燕)つつ鳥(鶺鴒)
 ち鳥(千鳥)ましとと(真鵐=頬白)
 など黥ける利目

鳥信仰を思わせる、マナイズム的呪術の入墨姿に驚いたのであろう。海人族の古代習俗を全く知らなかったのである。

 ●伊久米伊理毘古伊佐知命-本牟智和気御子-鵠●
天皇殺害を図った沙本毘古命の妹 佐波遅比売命[垂仁天皇皇后]の御子である本牟智和気は、稲城を焼いている際の"炎"から生まれたとされ、唯一の生き残り。姫彦制度の矛盾で苦しむ皇后というモチーフが根底にある伝承。

忘れ形見を可愛がるのだが、言葉を発しないのが気がかり。それが、鵠の声を聞いて言葉を話せるようになった。
 かれ、その御子を率て遊びし状は、
 尾張の相津にある二俣榲を二俣小舟に作りて、
 持ち上り来て、倭の市師池軽池に浮かべて、
 その御子を率て遊びき。
 然るにこの御子、八拳鬚心前に至るまで御事とはず。
 かれ、ここに
  高往くが音を聞かして、
  始めて吾君問したまひき。

極めて大きな鳥だったのでビックリしたのだと思われる。鵠が、はたして珍しくもない白鳥を指すのか、コウノトリかはなんとも言えぬが、ともあれ、その鳥を捕らえさせても期待した効果なし。
 かれ、山辺之大(:ノスリ猟師か?)を遣はして、
 その鳥を取らしめき。
 かれ、この人その鵠追ひ尋ねて、
 木国(紀伊)より針間国(播磨)に到り、
 また追ひて稲羽国(因幡)に越へ、
 すなはち旦波国(丹波)・多遅麻国(但馬)に到り、
 東の方に追ひ廻りて近つ淡海国(近江)に到り、
 すなはち三野国(美濃)に越え、
 尾張国より伝ひて科野国(信濃)に追ひ、
 遂に高志国(越)に追ひ到りて、和那美の水門に網を張り、
 その鳥を取りて持ち上りて献りき。
 かれ、その水門を号けて和那美の水門と謂ふ。
 またその鳥を見たまはば、物言はむと思ほししに、
 思ほすが如く言ひたまふことなかりき。

鵠を追った地域とは、朝廷の勢力範囲を示しているような記述。鳥に関しても、律令国家の産品管理下になったのであろう。
結局、占いで、口がきけないのは出雲の大神の祟りによると見なされた。
 かれ、曙立王に科せてうけひ白さしめらく、
 「この大神を拝むによりて、誠験あらば、
  この鷺巣池の樹に住むるや、うけひ落ちよ」
 かく詔りたまふ時に、その鷺地に堕ちて死にき。
 また「うけひ活きよ」と詔りたまへば、更に活きぬ。

占いは鹿骨を用いるが、古代の鳥占いを感じさせる話に仕上がっている。鷺が選ばれる理由は不明だが、白鳥を対象にできないので、白鷺が選ばれたということか。
この時代に白に対する特別な感情があったとも思えないから、お上による神聖化のお達しも律令国家として不可欠だったということか。白鶴同様、貴人の祭祀食以外は全面禁止とした可能性が高そう。(中国では、野生白鳥肉は禁止でも、裏で珍重されているというから、若鳥は美味だと思われる。)

 ●倭建命-美夜受比売-鵠●
東征を一巡し、尾張国に戻った倭建命は約束していた美夜受比売のもとへ。祝宴になる。
 ここに大御食献る時に、
 その美夜受比売、大御酒盞を捧げて献る。
 ここに美夜受比売、それ襲の襴に月経著きたり。
 かれそを見そなはして、御歌詠みしたまはく
  久堅の 天の香具山
  鋭喧に さ渡る
  弱細 手弱腕を
  枕かむとは
  我はすれど さ寝むとは
  我は思へど 汝が著せる 襲の裾に 月立ちにけり
結婚とあいなる。

 ●倭建命-白鳥●
倭建命の訃報が入り、后達や御子達は、御陵を作り嘆き悲しむのであった。
倭建命の魂は八尋の白智鳥の姿になり、浜へと飛んで行ったため、追いかけて行くことになる。(習性的には鷺が適合する。)

 また飛びてその礒に居たまひし時に、歌曰ひたまはく、
  浜つ千鳥
  浜よは行かず
  磯伝ふ
 これらは、天皇の大御葬歌とされた。

死者の霊魂は鳥の姿になって、天空にふわふわと飛んでいくという観念ができあがっていることを示している。

 ●息長帯比売命-喪船●
筑紫から凱旋する息長帯比売命[仲哀天皇大后 神功皇后]軍が、琵琶湖で忍熊皇子とその将軍五十狭茅宿禰を破って追撃。

 ここにその忍熊王と伊佐比宿禰と、
 共に追ひ迫めらえて、
 船に乗りて海に浮かびて、歌ひて曰はく、
  いざ吾君
  振熊が
  痛手負はずは
  鳰鳥(かいつぶり)
  淡海の海に
  潜きせなわ
 とうたひて、即ち海に入りて共に死にき。

ここでは鳥に特段の意味はなさそう。当時の琵琶湖は鳰鳥だらけで、通称地名が使われただけだろう、と単純に考えることもできるが、鳰鳥族としての誇りを詠んでいる点に注意を払っておく必要があろう。言うまでもないが、この鳥は潜水お得意の「息長鳥」であり、その名を賜る氏族@滋賀〜若狭〜富山の祖を紹介していると考えることもできるからだ。

《中巻》末尾に記載されている、大雀命、大山守命と父君、品陀和気命[応神天皇]の話は最初にとりあげたが、その辺りでも鳰鳥がでてくるので引いておこう。

 ●品陀和気命-蟹の歌-鳰●
女性も素敵だが、蟹の塩辛が気に入ったのだろうか。
 そこで大御饗を獻じた時
 矢河枝比賣命にお酒盞を取らせて獻りました。
 そして、天皇がその酒盞をお取りになりお詠みになった歌。
  この蟹、何処の蟹。
  遠くに伝わる、都奴賀(角鹿)の蟹。
  横に去って、何処へ至る。
  伊知遲島・美島に着いて
  (カイツブリ)の、潛って息をつき、
  階梯のある楽浪道(ササナミ)道を、
  スクスクと、我がいませば、
  木幡の道にて、逢はしし孃子、
  後手は小楯ろかも。
   :
スタコラやってきて、小楯のような姿の麗しき女性に遇えて嬉しいのはわかるが、蟹やカイツブリの行動でのアナロジー表現が面白いとも思わないのだが。
しかし、娶ることになり御子もできるのだから流石。

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