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■■■ 日本の基底文化を考える [2018.7.19] ■■■
鳥崇拝時代のノスタルジー[9]
−古代感がある鶉は、和歌のモチーフに−

ウズラは中華帝国の古代王朝にとっては重要な鳥だったらしい。
「山海経」西山経に、昆侖之丘に"鶉鳥"。帝之百服役とあるからだ。[→]

実際、「禮記」内則の、"膳"(メインディッシュ食材=肉)に収載されているうち、鳥は、雉、鶉、(三斑鶉)だけ。
(ツングース系民族王朝"清"の宮廷料理には、歴史習俗を踏まえた満漢全席があるが、この菜譜にも鶉が含まれている。鶉は鶉の中国語。)
 清炸鶉@廷臣宴
 醤鶉@千叟宴
 麻辣鶉@九百宴
 罐兒鶉@節令宴


内則の食材内容から見て、どう見ても北西域での食習慣がベース。そうなると、鶉とはユーラシアに広く分布していた種だとおもわれる。それは、地中海の渡り鳥 欧羅巴鶉のこと。この鳥だが、エジプト第6王朝でも大々的に食されていた。"(Mererukaのマストバ型墓の絵から、飛来直後に、脅かして一斉に飛び立たせ、足を網にひっかける方法で大量捕獲がなされていたことがわかる。)
当時、すでに中国王朝と交流があったとも思えぬが、高度な道具を使っている訳ではないから、中国でも同様に大量捕獲が行われていたと見てよいのでは。

ともかく、そんな情景が知られていたとすれば、バタバタと一斉に飛ぶ鳥というイメージが出来上がっていたようである。その典型表現がコレ。
 "鶉之奔奔"[「詩經」風]…入り乱れていた男女関係の諷刺表現(衛の宣姜)
七十二候@中国でも、「清明」次候"田鼠(熊鼠)化為(鶉)"であり、いかにも大群が湧いて出るような感じで渡ってきたのだと思われる。("夫蝦蟆為鶉"[「淮南子」齊俗訓])
日本の場合は、おそらく、その亜種にあたるのだろ思われる。
うづら(叢草群)という名前から見て、渡り鳥という意識はそれほど強くなかったのかも。日本版七十二候には取り入れていないし。
「古事記」でも、女御を表現した"鶉鳥 領巾取り掛けて"程度の記述。
鶉雉は野での狩猟対象の定番だった筈だから、もう少し注目してもよさそうに思うのだが。
ところが、「萬葉集」の歌では登場してくる。一斉に飛び立つとか、鷹狩の対象という気分は全くなく、野に隠れながらゆっくり這い廻り、印象的な鳴き声を出す鳥と見なされていたようだ。
つまり、狩場で会うのではなく、家の周りの野に棲んでいるお仲間ということだろう。
柿本人麻呂は、鶉は、足をかがめて這い廻るという習性を知っていた訳だ。じっくり観察していたことがわかる。
高市皇子の尊の、城上の殯宮の時、柿本朝臣人麿がよめる歌一首、また短歌[巻二#199]
 かけまくも ゆゆしきかも・・・
 ぬば玉の 夕へになれば 大殿を 振り放け見つつ 鶉なす い匍ひ廻り 侍へど・・・
長皇子の猟路野に遊猟したまへる時、柿本朝臣人麻呂がよめる歌一首、また短歌みじかうた[巻三#239]
 やすみしし 我が大王・・・
 獣こそは い匍ひ拝み 鶉こそ い匍ひ廻れ
 獣じもの い匍ひ拝み 鶉なす い匍ひ廻り 畏みと 仕へまつりて・・・
最初の歌は挽歌だが、極めて長い。

尤も、野に踏み込んで追い立て飛び立たせる場面もあるので引いておこう。
[巻三#478]
 ・・・朝狩に 鹿猪踏み起し 夕狩に 鶉雉踏み立て・・・
怕しき物の歌三首[巻十六#3887]
 天なるや 神楽良の小野に 茅草刈り 草刈りばかに を立つも

ともあれ、その鳴き声が心に染みることになり、「鶉鳴く」は「古りにし里」にかかる枕詞と化す。野鳥を定番にするのだから、余程のことと考えてよかろう。
大伴宿禰家持が紀女郎に贈れる歌一首[巻四#775]
 鶉鳴く 古りにし里ゆ 思へども 何ぞも妹に 逢ふよしもなき
故郷の豊浦寺の尼が私房に宴する歌三首[巻八#1558]
 鶉鳴く 古りにし里の 秋萩を 思ふ人どち 相見つるかも
寄物陳思[巻十一#2799]
 人言を 繁みと君を 鶉鳴く 人の家に 語らひて遣りつ
十六年四月の五日。独り平城の故宅に居りてよめる歌六首 右、大伴宿禰家持がよめる。[巻十七#3920]
 鶉鳴き 古しと人は 思へれど 花橘の にほふこの屋戸

そんな気分が昇華されて作品として結晶化したものが「伊勢物語」百二十三段。飽きがきていた女と歌をやり取りし、その才に感じ入り思い直した話。
有名な歌で、鶉は掛詞として用いられている。
深草の里に住み侍りて、京へまうてくとて そこなりける人に 詠みておくりける
業平の朝臣:
  年を経て 住み来し里を い出ていなば
   いとど深草 野とや成りなむ  
[「古今和歌集」巻十八#971]
(女の)返し(歌):
  野(深草)とならば (憂き面)となりて 鳴き(泣き)をらむ
   狩り(仮)にだにやは 君は来ざらむ 
[「古今和歌集」巻十八#972]

鄙びた感を与える深草の地は、渡来系秦氏が開発したと言われ、平安期には藤原一門の荘園だった。貴族に愛された場所でもある。そんなこともあって、鶉といえば深草の情景。そして、秋という季感が鶉に伴うようになっていく。
  夕されば 野辺の秋(飽き)風 身にしみて
   
鶉鳴くなり 深草の里 藤原俊成[「千載和歌集」巻四秋上#259]
  あだに散る 露の枕に 臥し侘びて
   
鶉鳴くなり 床(鳥籠)の山風 俊成女[「古今和歌集」#514]
  鶉鳴く 夕の空を 名残りにて
   野となりにけり 深草の里
 藤原定家[「新拾遺和歌集」#97]
  狩りに来し の床の 荒れ果てて
   冬深草の 野辺ぞ淋しき
 後鳥羽院[「後鳥羽院御集」内宮百首#260]
  鶉鳴く 折にしなれば 霧こめて
   あはれさびしき 深草の里
 西行[「山家集」秋歌#425 "霧"]

(Wikisource 万葉集 鹿持雅澄訓訂 1891年)
[→鳥類分類で見る日本の鳥と古代名]

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