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■■■ 日本の基底文化を考える [2018.8.4] ■■■
鳥崇拝時代のノスタルジー[25]
−大伴家持御愛好鴨−

人によって評価は違うものの、葦鴨ヨシガモのプリゼンテーション色が美しいとは、誰もが認めるのではなかろうか。

「萬葉集」にも、葦鴨は登場するが、ヨシではなくアジ。葦が生える辺りに棲む真鴨というだけの可能性もある。

小生は、大伴家持が愛好していたのは葦鴨ヨシガモと見る。
但し、葦鴨を直接的に愛でて歌に詠んだ訳ではない。

登場するのは、大伴家持が越中守として赴任したいた時期に詠まれた歌。
仲間と布勢水海(現在陸地化:氷見十二町潟水郷)の湖岸を漕ぎ巡っての遊覧を楽しんでいたようだが、なかでも、葦鴨の群を眺めるのが嬉しかったようだ。
布勢水海に遊覧びたまへる賦に敬和す一首、また一絶 [巻十七#3993]
藤波は 咲きて散りにき 卯の花は 今ぞ盛りと 足引の 山にも野にも 霍公鳥 鳴きし響めば うち靡く 心も撓に そこをしも うら恋しみと 思ふどち 馬打ち群れて 携はり 出で立ち見れば 射水川 水門の渚鳥 朝凪に 潟に漁りし 潮満てば 嬬呼び交す 羨しきに 見つつ過ぎ行き 澁谿の 荒礒の崎に 沖つ波 寄せ来る玉藻 片縒りに 蘰に作り 妹がため 手に巻き持ちて うらぐはし 布勢の水海に 海人船に 真楫掻い貫き 白布の 袖振り返し 率ひて 我が榜ぎ行けば 乎布の崎 花散りまがひ 渚には 葦鴨騒き さざれ波 立ちても居ても 榜ぎ廻り 見れども飽かず 秋さらば 黄葉の時に 春さらば 花の盛りに かもかくも 君がまにまと かくしこそ 見も明らめめ 絶ゆる日あらめや

と言うことは、笠女郎が詠った鴨は葦鴨の可能性も。
笠女郎が大伴家持に贈れる歌一首 [巻八#1451]
水鳥の 鴨の羽色の 春山の おほつかなくも 思ほゆるかも
要するに、家持がはっきりさせないことを責めている訳だが、それがまるで鴨の羽色みたいだというのである。
そうなると、光の加減で、今迄黒っぽかったのが急に光り輝く緑色と化し、その横も赤紫色となる状態を指していると思えてくる。
それは家持が愛でていた鴨でもあった訳だ。

大伴家持は、葦鴨が群れる様子が余程好きだったと見え、他の歌にも葦鴨が出て来る。葦鴨を詠おうという趣旨ではないが。・・・
大事に飼っていた手慣れた鷹を勝手に持ちだされて逃げられてしまう。捜しても見つからず。でも夢でお告げが。
その秀つ鷹は
 松田江の浜を飛び行き、
 つなしが獲れる氷見の入り江を過ぎ、
 多古の島辺りを飛び回り、
 葦鴨が群れる古江に一昨日も昨日も飛び続けていました。
 戻ってきますヨ、と。

放逸せる鷹を思ひ、夢に見て感悦びよめる歌一首、また短歌 [巻十七#4011]
大君の 遠の朝廷と 御雪降る 越と名に負へる 天ざかる 夷にしあれば・・・ 少女らが 夢に告ぐらく 汝が恋ふる その秀つは 松田江の 浜行き暮らし つなし捕る 氷見の江過ぎて 多古の島 飛び徘廻り 葦鴨の 多集く舊江に・・・

上記でオシマイにしたいところなれど、葦鴨の歌が収載されているので、一応、見ておこう。
浅学の身である小生にとっては、全く興がのらない歌である。比喩表現が理由ではなく、群れることで水が溢れるという情景に違和感を覚えるからだ。それに、たとえそうだとしても、何故に葦鴨を起用する必要があるのだろう。そもそも、大騒ぎされると、恋人を代えようとするとのストーリーもナンダカネである。
譬喩 [巻十一#2833]
葦鴨の すだく池水 溢るとも 儲溝の辺に 吾越えめやも
右の一首は、水に寄せて思ひを喩ふ。

しかしながら、そのように考えるの思い上がりと言えよう。現代人には葦鴨の習性に関する知識が余りに欠落しているに過ぎないのである。公園の池見る葦鴨は、他の多数派の鴨にバラバラ混じっているが、なんの合図もなさそうに思うのだが、時として、少々離れた静な水面にそれとなく"全員集合"していたりする。少集団とはいえ10羽を越える。古代なら少なくとも1桁上である。
他の種でも述べたが、ヒトに見られないような薄暗がりの静かな狭い場所にとんでもない数で大習合し互いにバシャバシャ大暴れするイベントはあっておかしくない。ソレ、ヒトで言えば、喧嘩神輿を担ぎ連中の我を忘れた大混乱状態。確かに、細い水路から水が溢れだすレベル。葦鴨の場合は、それが一種の歌垣なのだろう。これこそが葦鴨としてのアイデンティテイの発露ということで。
そうだとすれば、この歌人の気分もなんとなくわかってくる。
歌垣的に争そい水が流れ出すが如くにして伴侶を見付ける文化は定着してはいる。でも、私は、こうしてすでに一緒にいるアナタと居るのが一番。しかし、いかにも美しく、光の加減でどうにでもなる葦鴨のことである。そう言われれば誰だって嬉しくなるがが、同時に本当とは思えない訳である。

現代人が和歌らしさに溢れるとして気軽に鑑賞できる作品は、ずっと後世にならないと出てこないようだ。
藤原定家[「拾遺愚草 定家」@1241年"仁和寺宮五十首"#1763]
葦鴨の よるべのみぎは つららゐて うき寝をうつす 沖の月影

(Wikisource 万葉集 鹿持雅澄訓訂 1891年)
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