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■■■ 日本の基底文化を考える [2018.8.15] ■■■
鳥崇拝時代のノスタルジー[36]
−東京の鳥−

鴎を採り上げたので、百合鴎も。
ご存知、「都鳥」。
その根拠たる、「伊勢物語」第九段"東下り"の部分を見ておこう。・・・
白き鳥の 嘴と脚と赤き 鴫の大きさなる 水の上に遊びつつ魚を食ふ。
京には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず。渡守に問いければ、これなむ都鳥といふを聞きて

 名にし負はば いざ事問はん 都鳥 我が想ふ人は 在りや亡しやと
と詠めりければ、舟こぞりて泣きにけり。
なんといっても不思議なのは、京には見えぬ鳥なのに、都鳥と呼んでいる点。だからこその歌、との面白いストーリー。

ただ、現代感覚では成程感あり。"ユリカモメ"はまさに巨大都市の鳥という趣を感じるからだ。尤も、一般的にそう考えられている訳ではない。
東京を代表する鳥の位置付けではあるが、単に、"歴史的"に江戸の鳥とされているだけ。(隅田川の両国近辺では、葛飾北斎:「都鳥図」=ユリカモメとの認識いうことで。)

この鳥の特徴は、雑食性である点。京の都に登場していないとの在原業平の指摘はまことに正しく、世界大戦の頃も存在していなかったと思う。京都人の体質が変わって、ついに鴨川に登場し始めたと見る。
そう語ればおわかりだと思うが、東京では、この鳥は餌をくれそうな人がいると平然と押し寄せてくる図々しい輩。今や、おそらく自然の魚介は主食ではなく、なんでもござれ。
流石に寝床だけは何処でもとはならない模様だが、喰う為には何処だろうが通勤厭わず。
これぞ正しく都会の鳥とは言えまいか。

これを考えると、業平が訪れた"東"には、"京"とは全く異なるとはいえ、すでに人々が密集して生活する場が生まれていたのでは。

しかるに、「萬葉集」にも都鳥は登場する。
右の三首は、江の辺にてよめる。 [巻二十#4462]
船競う 堀江の川の 水際に 来居つつ鳴くは 都鳥かも
多くの舟が行き交うような難波の都市的環境だから、同じ鳥ではないかと思うが、そうだとすれば業平が全く知らなかったとは思えない。
萬葉集の表記は、"美夜故杼里"だから、業平は海猫と解釈したのかも。そして、百合鴎は知らなかったのである。

そんなこともあるのか、都鳥は百合鴎ではないとの見方も。ご存知のように、ここらは実に厄介極まる。
生物学上の命名"ミヤコドリ"は鴫や千鳥に近く、鴎の類ではないからだ。主食は貝のようで、食性が全く異なり、都会的とは言い難い。
貝類繁殖地でないとお見にかかることはなさそう。それなら、「美夜」鳥としておけばよかったのに。

折角だから、都鳥がその後どう扱われたか分かり易い例をあげておこう。
「或殿上人右府生秦頼方の進じたる都鳥を橘成季に預けらるる事」 [「古今著聞集」巻二十 魚蟲禽獣#721]
(後嵯峨天皇)御隨身 右府生 秦ョ方、"都鳥"を、ある殿上人に参らせたるを、成季に預けられて侍り。喰ひ物等も知らで、萬の蟲を喰はせ侍るも、所せく覚えて、由々しき物飼いなるによりて、小田河美作の入道 茂平が元へ遣りて、飼はせ侍しを、建長六年十二月廿日、節分の御方違の為に、前相國の富小路亭に行幸なりて、次の日一日、御逗留ありし。相國、彼の"都鳥"を召して、叡覽にそなへられけり。返し遣はすとて、少將の内侍、紅の薄樣(用紙)に歌を書きて、鳥に付けて侍りける、
 春にあふ 心は花の キ鳥
  のどけき御代の ことや問はまし
大臣
(おとど)又、女房に代わりて、檀紙(用紙)に書きて、同じく結び付けゝる、
 墨田川 棲
(澄)むとし聞きし 宮こ鳥
  今日は雲井の 上に見るかな
此事を兼直宿禰 伝へ聞きて、本主に申しこひて見侍りて、返すとて、
  キ鳥芳名、昔聞萬里之跡。
  微禽奇體、今遂一見之望。
  畏悦之餘、謹述心試ァ己。
 濁無き 御代にあひ見る 墨田川
  棲
(澄)みける鳥の 名を尋ねつゝ
   前參河守卜部兼直 上

(出典:「古今著聞集」日本古典文学大系 84 [永積安明 島田勇雄 校注] 岩波書店 1966年 を改変)

(Wikisource 万葉集 鹿持雅澄訓訂 1891年)
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