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■■■ 日本の基底文化を考える [2018.8.31] ■■■
鳥崇拝時代のノスタルジー[52]
−反鳥詠み−

「古今著聞集」最後に跋文があるが、その後に、唐突にも中国版説話が並ぶ。その冒頭譚にはそれに関して一言あり。
 唐土の事なれども、些か此れを著せり。
校注者によれば、これは弁解染みている。しかも、本書編成方針とは反する。その上、すべてが「十訓抄」と大異ないそうで、"後人による追記と認められる。"とのこと。

それはそれ、何故に"禽獣"編に組み込んで読ませたかったか考えることができ面白い。登場する鳥は黄雀(スズメ)、鶴、鴈。

先ずは黄雀だが、中国の儒教思想解説のための歴史故事集 劉向[B.C.80-B.C.8年]:「説苑」の話。
蝉を狙っている蟷螂が自分も雀に狙われているのだが、ソレに気付かないというだけのストーリー。それを重層化しているだけ。よく見かける蟲と小鳥であり、両者共に特定勢力の表象ではなさそう。他の鳥でもなんらかまわない。
「孫叔敖 楚の襄王を諌むる事」巻二十"魚蟲禽獣"(第三十編)#723
楚襄王、晋国を討たむとす。孫叔敖、これを諌め申しては曰く、「園の楡の上に、蝉の、露を飲ますとする在り。後に蟷螂の侵さむとするを知らず。蟷螂、又、蝉のみを護りて、後に黄雀の侵さむとするを知らず。黄雀、又、蟷螂をのみ護りて、楡の木の下に弓を引きて、童子の侵さむとするを知らず。童子、又、黄雀をのみ護りて、前に深谷、後に掘株の在ることを知らずして、身を誤まてり。これ、前利をのみ思いて、後害を省みざる故なり」と申せり。王、此の時悟りを開きて、晋を攻めむと云ふこと、思い留りにけり。

次は鶴。知る人ぞ知る懿公の話。
侵略者に食べられてしまい、肝臓だけが打ち捨てられたことで有名。鶴を愛好しすぎて、攻められても見捨てられてしまい、そこまで行ってしまったというお話。一見、ご教訓の好例に思えるが、単純な戦史でしかない。君主の事跡や統治姿勢を知らないと全く意味を成さない読み物。
「春秋左氏傳」閔公二年
冬,十二月,狄人伐衛。衛懿公好鶴,鶴有乘軒者。將戰,國人受甲者皆曰:「使鶴,鶴實有祿位,余焉能戰?」公與石祁子,與ィ莊子矢,使守,曰:「以此贊國,擇利而為之。」與夫人衣,曰:「聽于二子。」渠孔御戎,子伯為右,夷前驅,孔嬰齊殿。及狄人戰于澤,衛師敗績,遂滅衛。衛侯不去其旗,是以甚敗。狄人囚史華龍滑與禮孔,以逐衛人。二人曰:「我,大史也,實掌其祭。不先,國不可得也。」乃先之。至,則告守曰:「不可待也。」夜與國人出。狄入衛,遂從之,又敗諸河。
ただ、儒教話に仕上げたいから、上記は前段話に過ぎない。ハイライトは、孝臣が君主の肝を自分の身体に入れるべく自刃する話。
「衛の懿公鶴を愛して士を賞さず遂に国を亡ぼす事」巻二十"魚蟲禽獣"(第三十編)#724
・・・夷、懿公を殺して、皆喰らいて、その肝ばかりを、土の上に残して帰へりにければ、懿公の臣 弘演と云ふ人、天に恥じて、己が腹を裂きて、君の肝を入れて死にけり。
鶴その益無くや。

愛玩動物や女性に惚れ込んで政治などほったらかしという君主は珍しくもない。それでも時流に乗っていれば、戦争を回避できるから、たいした弊害は生まれないことが多い。暴虐で残忍な振る舞いの君主と比べれば、どうということもなかろう。
それと、実利無き君主は見捨てられる話は別な次元。そこをゴチャ混ぜにするのが儒教の特徴。そうなるのは、すべてに血族的観点でのヒエラルキーを持ち込んでくるから。儒者は自らは頭の整理ができていると思っているので、そこらは絶対に理解できない。宗教とはそういうもの。
大陸は、基本、領土争いで年中戦争。たまたま平穏でも、殺し殺される事態は日常茶飯事。敵に喰われたと聞けば驚いてしまうが、もともとはそういう風土。帝国化が始まって、血筋がはっきりしている君主に対しては、そのような勝利の宴をしないという不文律がつくられたに過ぎない。

流石に、儒教道徳でばかりでは拙いということか、その次は、「莊子」から。樹木の場合、良材のみ伐採される。一方、雁は善く鳴く個体のみ生き残れる。と云う事をどう考えるかとのお話。いくらなんでも、そんな内容を禽獣編に収載するとはナンダカネであるから、末尾に言い訳。
元ネタは考えさせるという意味で好材料譚であるのは間違いない。・・・
「莊子」外篇 山木第二十
莊子行於山中,見大木,枝葉盛茂。伐木者止其旁而不取也。問其故,曰:「无所可用。」莊子曰:「此木以不材得終其天年。」
夫子出於山,舍於故人之家。故人喜,命豎子殺雁而烹之。
豎子請曰:「其一能鳴,其一不能鳴,請奚殺?」
主人曰:「殺不能鳴者。」
明日,弟子問於莊子曰:「昨日山中之木,以不材得終其天年;今主人之雁,以不材死;先生將何處?」
莊子笑曰:「周將處乎材與不材之間。材與不材之間,・・・

だが、この話を収載したかった訳ではなさそう。長句を載せたかったようである。
「荘子弟子に諭す事 并びに 藤原篤茂が長句の事」巻二十"魚蟲禽獣"(第三十編)#725
文集(「白氏長慶集」)詩云、
 木鴈一篇須記取 致身材與不材間
とあるは是なり。
又、陸氏衡が文賦には、

 在木闕不材之質 處鴈乏善鳴之分
とも書けり。
又、藤原篤茂が長句には、

 昨日山中之木、材取緒己
 今日庭前之花、詞慙於人

此の一篇などは、禽獣の部に入れるべきにあらず。さりながら、二鴈の験しに注(しるし)入れ侍るなり。
小生が思うに、どうしても禽獣に入れたかったのである。草木や天体地形に感じ入るのは良いが、鳥崇拝の時代の残滓を抱えていそうな、野禽愛好感情をベースとした歌詠みを止めさせたい人々がいた訳である。
鳥を官僚的ヒエラルキーの中に位置付けることが難しいからか。

(上記典拠)
「偶作」 白居易@全唐詩/卷456
籃舁出即忘歸舍,柴戸昏猶未掩關。
聞客病時慚體健,見人忙處覺心閑。
清涼秋寺行香去,和暖春城拜表還。
木雁一篇須記取,致身才與不才間

「盧子諒贈劉一首并書」 @蕭統[梁]:「文選」卷二十五
故吏從事中郎盧ェ死罪死罪!
ェ稟性短弱,當世罕任。
因其自然,用安靜退。

「雨来花自湿詩序」 菅原篤茂 @「和漢朗詠集」下巻#470

(出典:ママ引用ではなく勝手に改訂していますのでご注意の程)「古今著聞集」日本古典文学大系 84 [永積安明 島田勇雄 校注] 岩波書店 1966年
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