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■■■ 日本の基底文化を考える [2018.9.18] ■■■
鳥崇拝時代のノスタルジー[69]
−鳥居考 [三輪山の結界]−

"鳥居を立てる風習は、神社の建物がつくられるようになる前から存在した。と言う点に注目したい。

となれば、眺める先は一つしかない。古習を今に伝えると言われている大神神社である。
そう呼ばれるのは、この神社には、神の居場所たる本殿がなく、拝殿から直接ご神体三輪山を拝むことになるからだ。もともとは、神の居場所に社は必要などなかった筈で、仏像安置の本堂に対応する形で、神社に本殿を造営したと考えられるから、この参拝方式を原型とみなす訳だ。
山腹には神の降臨場と思しき磐座があり、そこで儀式が行われていたが詳細は不明。ご神体の山を祀る神職が杜(山林)を守っていたようだ。
丹波大女娘子が歌三首 [巻四#712]
味酒を 三輪の祝(神社の神職:はふり)が 斎ふ杉 手触りし罪か 君に逢ひ難き
(Wikisource 万葉集 鹿持雅澄訓訂 1891年)

ともあれ、この神聖な三輪山と俗界の境界とされるのが、三ツ横一列に並べた特異な構造の"三ツ鳥居"と瑞垣。鳥居の意味は、結界ということになる。
神社参拝の一般的な鳥居の境界も、神域との境界ではあるものの、意味が違い、鳥居から先は禁足地。
当然ながら、一般的な鳥居も建造されており、参道沿いに一の鳥居い、二の鳥居がある。

この"三ツ鳥居"だが、鳥居の構造が神仏混淆の明神型であるから、仏教伝来以降ということになる。明治維新期の廃仏運動により、書類や建造物から仏教色を一才取り除いたと目される神社だが、神仏習合の三輪明神様としての扱いを棄ててはいなかった訳である。(寺院伽藍の三間三戸の三門と似たコンセプトがあるのだろう。)
同様に、古代型の鳥居も残しているのが、この神社の一大特徴である。
拝殿前には"縄鳥居"があるからだ。

掘っ建て柱2本を立て、その間に縄を掛けることによって、境界を示していたことになろう。
風景が変わってしまいわからなくなってしまったが、山野辺の道沿いに保たれてきた神社群は、門的な鳥居と極く小さな社だけしか建造物が見当たらない場合が多い。もともとすべてが"縄鳥居"だったかもしれないのである。

鳥居はあくまでも、神との交流を果たす場の建造物であり、そこから先は世俗から隔離された領域となる。神の特別な承認なくしては何人も入れなかったに違いない。
原初の概念は、神聖域たる境内への入場門ではなかったと見るべきだろう。

掛け渡した注連縄に止まれるのは雀で、柱の天辺だと烏くらいのもの。それらが、神が遣わしたと考える必然性はなかろう。原初鳥居は鳥には無関係と考えるべきだろう。
残念ながら、その呼び名はわからないが。

ともあれ、社殿がおかれ、前庭が生まれ、そこに通ずる参詣道が整備され、門としての鳥居が置かれていった訳で、寺院の様式に合わせて整備されていった様子が見てとれる。

せっかくだから、三輪山について一言加えておこう。

三輪山は万葉集では三諸として記載されているが、その意味は"御室"つまり降臨する場所としての神籬と見られている。
「山海經」は、山系で区分した各地域のトーテム一覧といった風情であるが、地勢の特徴と信仰対象に連関があるのは当たり前だが、どうしてそれを特徴とみなすのかは部外者にはわかりかねるところ。
と言っても、富士山や筑波山なら、その存在感は誰の目にも明らかで、説明なくとも、前者は近寄りがたい印象を与えるし、後者は歌垣の地の雰囲気を醸しだす。
ところが、三輪山は丘に近い円錐形状低山でとりたてて目立つ訳ではない。にもかかわらず、皆の信仰対象だった理由は何だろうか。思うに、それは、突然のように生まれた都を故郷としている人々にとっては自分自身のようなものだったからではあるまいか。日々眺めている山というだけでなく、奇跡を実現してくれた神々しさを感じていたのではあるまいか。
「万葉集」に収録されている、大伴家持が耳にした歌から、そう推定しているに過ぎぬが。
壬申の年の乱、平定し以後の歌二首 [巻十九#4261]
大王は 神にしませば 水鳥の 多集く水沼を 都と成しつ

沼地でしかなかった地を一面の田圃にし、そこに飛鳥浄御原宮という一大文化の都を出現させたのである。
つまり、三輪山とは水沼にぽっかりと浮かぶ島のようなもの。それは、大王だけでなく、海人を祖先とする貴族達も共有する、心象風景だったのではなかろうか。
山野辺の道を何回か歩くと、それは実感でもある。靄がかった背景に登場する姿は緑の小島である。

【付言】
社殿の有無が生まれる理由は自明である。神社の音は"ジンジャ"だが、「古事記」でわかるように、訓は"かみのやしろ"。どう考えても、本来の漢字は屋代。依り代が"屋"ということ。
(神社は中国語である。・・・昔者齊莊君之臣,有所謂王里國,中里徼者,此二子者,訟三年而獄不斷。 齊君由謙殺之,恐不辜;猶謙釋之,恐失有罪。乃使之人共一羊、盟齊之"神社"。二子許諾。[墨:「墨子」卷八 明鬼下])
神宮も同様に"ジングウ"は"かみのみや"だから、御屋のこと。降臨の地とは別な場所(御所)にお造りした御屋にお移り頂いたということ。
(神宮も中国語である。・・・鄭箋[注釋]:,神也。薑 神所依,故廟曰"神宮"。@「詩經」魯頌 之什 宮)
当然ながら、どちらも恒久的建造物の筈がなかろう。
[→鳥類分類で見る日本の鳥と古代名]

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