[→本シリーズ−INDEX] ■■■ 日本の基底文化を考える [2018.9.20] ■■■ 鳥崇拝時代のノスタルジー[71] −鳥居考 [精霊門]− 鳥居は門の一種で屋根が吹かれていないタイプだが、屋根が吹かれていない鳥居では無い門もある。 暦年を考えると、後者が前者の原初と見ることもできるかも知れぬが、おそらくそういうことではなく、トリイの意味が違ってきて門の仲間入りをしただけだろう。そうなれば、様々なコンセプトを習合することができるようになる。 おそらく、鳥居は神の遣わした神聖な鳥が居るという名称上の習合はかなり早くから進んだ筈である。 実際は、建築物の名前でしかなかった訳だが、横木に鳥が居るという意味に変っていくのである。 それは故なきことではなく、天照大御神を祀る社であれば、長鳴鳥止まり木があってしかるべしとなるからだ。狛犬が付け加わるようなもので、違和感なく受け入れられたであろう。 しかし、異なるご祭神の場合は必要な訳ではない。 ところが、そのような古代の鳥信仰に係る「鳥居」標章が付いた「精霊の門」がタイ北部山岳地帯の集落に存在することがわかったので、両者は同根との説が一気に広がってしまった。 小生も、そう考えてしまったが、細かく視ると両者の概念は全く異なることがわかる。 と言うことで、アカAkha族の「精霊の門」を見ておこう。 (この少数民族には、日本人のルーツを示唆していそうな習俗が散見されると言われている。当然のことながら、ジャナーナリスティックに注目を浴びることになり、信頼性が今一歩の様々な情報が行き交うことになる。そこらは要注意である。) 先ず、出自だが、言語系統(チベット・ビルマ語派イ語グループ)から見ると、長江域から雲南域に押し出された哈尼族Hani(唐代は南詔の傘下で地域支配した部族)に属しているが、支族とは言えそうにない。近代〜現代に渡って、チベット域から難民的に、現在の居住地域雲南〜ビルマ〜ラオス〜タイ北部の山岳地帯に流れ着いており、哈尼族と長い係りがあった訳ではない。 雲南周辺は、山や谷が多い地形で、距離的に近い集落であっても隔絶されがち。山岳領域だから、冷涼地帯で無い限り、焼畑稲作経済と見てよいだろう。もっとも、現在のタイ北部は、農耕地域と言うより習俗観光地状態だが。 宗教(zahv)はアニミズム的精霊信仰と祖先崇拝が融合したタイプと言われている。各家庭での日常的な精霊拝礼はもちろんのこと、集落全体では呪術師による祖霊や穀霊等との交感儀式的祭礼が行われている。その場合の、供犠としては、生贄(犬, アヒル)と酒らしい。父系制社会であり、無文字だが、口承家系史がある。 そんな部族の集落に、「精霊門spirit gate」が設置されている。外部から悪霊や獣蛇虫等の危険な野生動物が集落に侵入しないように、特別な力が期待されている。つまり、門とは、内部の集落人と家畜を護るためのもの。 明らかに、神聖な地とヒトが住む俗界の境界を示す日本の鳥居とは異なるコンセプトだ。 従って、その設計思想も異なる。 アカ族の門も構造的には、木造縦柱(男柱と女柱)に横木を渡しただけで、注連縄が絡むこともあり、鳥居と似てはいる。しかし、邪を防ぐために必ず鱗模様が彫り込まれるのだ。(類似の装飾で代替することもある。)集落内の家屋にも屋根にも同様な装飾を施しており、この門の第一義は防邪と見てよいだろう。 さらに、横木に木彫鳥を載せることがある。そのため、鳥居の原型と言われることになる。(建築用語のトリイは、鳥がこのように止まるということが発祥なのは自明。) 鳥居を門と見なしていそうな伊勢神宮の場合、日本の鳥居の縦柱は素の丸太であり彩色や彫刻は施されない。朱塗り系統の鳥居もあるが、単純な塗りだけでそこに模様や絵を描くことなどおよそ考えられまい。 アカ族が鳥を飾るのはトーテムポール的な意味と考えるのが自然であろう。(この習俗は、日本列島では朝鮮半島渡来人集落を除けばほとんど見かけないが、古事記に記載される熊野で活躍した烏はおそらくトーテム。鳥名姓を賜ることも少なくなかったのも、トーテム伝統を引き継いだと見てよさそう。当然ながら、大陸は「山海経」の世界だった訳で、トーテムは珍しいものではない。国家が生まれる前、各集落の入口にはトーテム標章を掲げていた筈である。)要するに、許可なく集落圏に入るなという表示であり、祖先が鳥となって守ってくれるという意味でもある。そこに、長鳴鳥のような意味があるとは思えない。それに飾りモノは他にもあるようだし。 (まるっきりの想像でしかないが、鳥トーテムの場合、神のお告げを伝える役割の祈祷師は伝承されている舞踏に登場するような鳥の扮装をしていたかも。) しかし、「精霊門」以外に、日本文化との類似性を思わせる鳥がいるので、日本と異質との話は避けられがち。 それは、集落の長と祈祷師が最重要と位置付けている年一回の祖霊を呼び込む儀式。穀物豊饒をもたらす霊をお迎えすることでもあるから、見かけは穀霊儀礼とも言える。その御迎えに当たっては「精霊門」類似の建造物が不可欠なのである。 門とすれば、それは神が集落においでになることを意味するので、確かに、神とヒトの交流の境を示す鳥居のコンセプトとほとんど変わらない。 しかしながら、鳥居を門と解釈可能なのは、その先に建屋あるいは霊が存在する場があるから。アカ族の場合はどう見ても天からの降臨で、門と考えるべきではなさそう。降臨の地ということなら、出雲系神社のような4本大柱的な依代により類似しているように思う。ちなみに出雲系神の降臨に際しては鳥の出番はなさそうだ。三輪においても、ご神体と思しき姿はあくまでも蛇であって、鳥は登場してこない。 にもかかわらず、日本の風習とウリと考える傾向があるのは、アカ族の住居が弥生的な建築様式の高床式だとされたせいだろう。(タイ国では、土間式も少なくないようだ。)そのイメージは、部落中心に巨大な高床建物と大井戸がある、大阪和泉池上曽根遺跡@2200〜2000年前の状況に重なるからだ。60万平米に200軒もがある環濠集落。溝中から6点ものアリ族の装飾鳥とソックリな木彫鳥が出土したらしいが、発掘記録がネット上に公開されていないから本当のところはわからない。当然ながら、鳥種もなんとも言いようがないが、復元銘打った模型家屋の写真を見ると、屋根の最頂部に飾られている。形から見るに長鳴鳥系統ではなさそうだ。 とはいえ、穀霊をお迎えするという儀式挙行という点だけとれば、アカ族と日本は同一風習と言えるし、穀霊のお出ましを山桜開花として一大儀礼を執り行う日本と同じ位に重視しているのだから、信仰的に同根という気がしてくる。 そうなると、鳥居もどこかでつながっていそう。 だが、日本に於ける穀霊御迎え儀式の基本形はかなり異なる点に注意を払う必要があろう。奥山で依代に降臨頂いてから、山裾、そして田と集落へと順にお出まし頂くのが日本の正式な御迎え儀式。(本来は、奥山のお社から、依代を下の2社へと、神輿でお運びする。そして、豊饒を実現して頂くために、歌舞音曲と宴席を設け、喜んで頂く訳だ。山桜が奥山から順に咲いていくことが、歓待行事の嬉しさと重なる訳である。)アカ族のように、一気に集落に降臨、広場での行事に突入という形式とは違う。これを、水田と焼畑の違いから生じただけと軽く考えるべきではないかも。 鳥居は、当然ながら穀霊の御座所毎に儲けられ、そこを通した交流になるが、アカ族儀式ではそうはなるまい。聖と俗の境であるとの認識が違うと思われるからだ。 ただ、このあたりのセンスはヒトによって異なる。あくまでも、日本人とアカ族は同根としたいと思っていると、理解できぬ感覚かも。簡単に言えば、日本人は鳥居を目にすれば、禊的な手水が必要と感じるということ。清浄な場に参加する必須要件がある訳だ。想像に過ぎぬが、アカ族社会ではそのような風習は皆無で、水洗・水浴といった行為は毛嫌いされている可能性が高かろう。 アニミズムだから同根という感覚は余りに粗雑すぎまいか。 ついでながら、アカ族と文化的に繋がりがありそうに感じさせるのが、歌垣の存在。 しかし、日本のように母系制を垣間見せる"通い婚"が存在していたとは思えない。厳然たる儒教的父系制社会であり、その観点では、歌垣慣習は唾棄すべきもの以外のなにものでもない。家制度から離脱し、男女が自由に婚姻関係を結ぶ仕組みだからだ。日本では、父系社会化のために、和歌に歌垣感覚を遺して、実社会からは消すしかなかった訳で、それは当然の流れである。(もっとも、慣習の残滓が村祭りや夜這いという形で発揮されていたようだが。)その道を歩まなかった理由ははっきりしない。集落規模が小さいため、近親結婚のリスクを下げる意味があるのだろうか。 (註) 中国雲南省に日本人の起源を求めた民俗学者は鳥越憲三郎[1914-2007年]である。 本シリーズ−INDEX> 超日本語大研究−INDEX> 表紙> (C) 2018 RandDManagement.com |