[→本シリーズ−INDEX]

■■■ 日本の基底文化を考える [2018.9.22] ■■■
鳥崇拝時代のノスタルジー[73]
−鳥居考 [ストゥーパの門]−

四天王寺では、伽藍の西門の外にさらに鳥居を配置するという、文字通り神仏混淆を象徴するような建造物である。
そのあたりがどうなっているか、細かく見ておく必要があろう。
この場合注意すべきは、仏教伝来といっても、日本仏教の主流は、天竺からの直伝ではなく、中国で変容した仏教である点。従って、中国がどのように取り入れたを知っておく必要がある。

と言うことで、古代インド仏教に於ける門の概念を眺めてみよう。

流れとしては2つあると思うが、インド仏教が存在感を失ってしまったので、情報が乏しくてよくわからないので、その見方でよいのかははっきりしないが、そこらから。

先ず、釈尊が活動していた頃であるが、普通に考えれば、宗教建造物として門を必要としていたとは思えない。菩提樹の木陰で説法してもよいのだから。
しかし、教団を形成すれば説法場は不可欠。その程度の施設が本来の"精舎"の筈。この呼び名は中国語訳で、儒教の教学舎を指す語彙だ。仏教施設の"伽藍"とは異なる概念である。ただ、そこには、至るところから修行者が集まるので、教団化すれば居住施設が併設される。表象としての門はあったろう。
現代感覚で言えば、修行に邪魔となりかねない非信徒は入るべからずという意味の門。内部感覚では、故郷からやってきて、修行を納めて又散っていく地に入る門であり、僧侶にとっては記念碑的なものとなろうが、信仰上重要な建造物の筈が無い。

それに、釈尊は明示的な信仰対象を設定する宗教から離れたかった筈だが教団発展を志向すればそうは言っていられない。
釈尊の意向に反して釈尊の遺骨を納めた仏舎利塔ストゥーパstūpaが各地に信仰対象として設置されることになってしまったのである。この結果、様々な地域に建造されて仏教は隆盛を誇ったのだが、立派な施設化が進み垣(塀)で囲う必要性が生まれてしまう。
当初の思想からすれば門的建造物は祭礼の場を設定する目的に使われていた筈だが、塔の付属物化されてしまったとも言える。この結果、内外の境を定めることになり、僧の地位は高まっただろうが、社会的親和性を失うことに繋がった可能性が高い。

この塔門だが、名称はトーラナToraṇa[Chi.:托拉納]。仏舎利塔ストゥーパの四方に設置されている。
構造的には2本の縦柱に3本横木。(紀元前3世紀にはすでにデザインが確立していたらしいが、仏教衰退でほとんど崩壊しており、実態ははっきりしない。古代様式は、かならずしも横木ではなく、アーチ型もあった。)
全面的に釈尊物語のシーンが彫刻されており、いかにもインド流の祭祀門といった印象を与える。ヒンドゥー神話から1シーンを切り取った絵画や彫刻の表象を祭祀の場に持ち込む風土に合わせた建築ということ。さらに、獅子が飾られている場合も。
これをどう見るかはセンスでいかようにも。インド仏教に傾倒する人々は鳥居の原型と見なすだろう。
聖なる箇所に入場する意識を喚起するための建造物であり、狛犬的存在もある訳で。呼び名も、「Toraṇa⇒鳥居」の可能性濃厚と言うことかも。「Stūpa⇒卒塔婆」だとすれば有り得ないことではなさそうだし。
小生は、日本社会では個別の神話は好まれるものの、汎神教を色濃く残しているから、特定の信仰対象を際立たせるような表象を取り入れるとは思わない。ある意味、祀られることもなくなった精霊への心遣いがされるということ。そう考えると、仏教用語を使うとは思えないのだが。
それに、最初の官寺の四天王寺は完成した伽藍形式だから、すでにトーラナは不要たと見てよかろう。

しかし、中華帝国では、舎利信仰と共にトーラナも入ったことは間違いなかろう。その残滓を、中華帝国の外縁地域の門で見ることがわかる。中華帝国では王朝交代で切り捨てられても、それを手本とした周辺地域にはママの形で残ったということ。朝鮮の中華的儒教施設(社, 墓, 教育施設)の門、"紅箭門フンサルムン"である。トーラナの前で祭祀が挙行される習慣を中華帝国の儒教コミュニティが取り入れたのだろう。
2本の縦柱に横木2本構造で、横木には釘状の直立棒(矢を模している。)が等間隔で沢山並び、中央上部に太極マークが掲げられる。そして、中華帝国の除邪の基本である朱色(紅色と呼ばれているが)に塗装されている。

この状況は、あくまでも北伝の大乗仏教での話。在家を峻別する南伝地域ではトーラナ文化が残っていておかしくない。大規模集会的な屋外祭祀が挙行される場の正面に設定されていておかしくないからだ。

【付言】
鑑真和上の私寺から出発した唐招提寺だが、南大門から入ると、正面に位置するのは寄棟造本瓦葺間口七間の金堂(奈良時代唯一の現存本堂:760年頃の建造)。お堂の中には広い須弥壇があり、その上に仏像が安置されている。扉の外側は吹き抜けの土間。おそらく、これが中国式仏堂の古い形式だと思われる。
その後の日本の様式は、ある意味、神社形式の導入と言ってもよいのでは。金堂(本殿)内部は、礼堂(拝殿)と内陣に明確に区分されており、段差構造になっていることも。その内陣に、扉が付いた厨子が安置されている。御簾がかかっていたり、原則閉扉であることも少なくない。


[→鳥類分類で見る日本の鳥と古代名]

  本シリーズ−INDEX> 超日本語大研究−INDEX>  表紙>
 (C) 2018 RandDManagement.com