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■■■ 日本の基底文化を考える [2018.9.23] ■■■
鳥崇拝時代のノスタルジー[74]
−鳥居考 [中華門]−

中華帝国の風土からすれば、交易インターナショナル化の鍵であり、最新知識を伝えてくれる仏教は垂涎だったに違いなく、伽藍的門の導入を図ったに違いない。もちろん、帝国の威厳を加える形で。

それには2つの流れがありそう。

1つ目は、貴人住居としての門の伝統に仏教的総門の考え方を載せる流れ。
中華帝国的には、天帝から使命を受けた天子の血族信仰に合わせ、門の意義を再定義した筈である。名称的には天帝-天子用の「天門」とか「(中)華門」となろう。
言うまでもないが、古代は、簿族とその奴隷からなる集落の出入り口(正門)としても通用していた門の発展形の頂点にあたる。
帝国であれば門にもランクが生まれるわけで、夫々名称が付いたに違いない。
里坊の城門の名称にしてから、"闕"@漢、"標"@六朝、"烏頭門"(黒色塗装)@唐と変えられたようで、その後通称"欞星門"となる。すべて意義もデザインも違うと見てよいだろう。

ちなみに、平城京は、唐の条坊制都城に倣って、大内裏四方に12の門が設置された。この時に南門の名称は「大伴門」から「朱雀門」に改められた。都全体の正門は「羅城門」である。
この時代の「鳥居」はこの手の門の1種をも指していた可能性も。認められた者しか通行を許さないということで。臣下は帝の詔を伝える"鳥身分"であり、お許しがなければ入場できないという意味で。

ともあれ、中華帝国にあってはこのような門の原初タイプの一般名称は"牌坊"。一番簡素なものは、2本縦柱に横木の梁のみ。屋根と斗組無し。
横板上に楼的屋根を加えるようになれば牌楼。こうする必然性は感じられないから、仏教の総門コンセプトを取り入れたのであろう。本来的には屋根ではなく仏伝の装飾あるべき。それを警護役存在の象徴としての屋根にしたのだと思う。(そうだとすれば、西域やチベットの門には仏伝絵が描かれていておかしくない。)
屋根付き的風情を醸し出すのが、権現様の鳥居(明神型)であり、それは楼的屋根の一番簡素な表現(見かけは大々的装飾がなされている、中華街入り口門や東照宮陽明門も階上にヒトが入れる"楼"を造らないという意味では簡略形式。と言っても、屋根が2重になっていれば"楼"有りの正式な門を意味する。)であるが、その横木名称が笠木とされているから、ママ中華帝国式ではないのかも。笠とは屋根ではなく神的貴人との拝謁儀式に用いていた傘のようにも思えてくるだけの話。

扉付門になると、中国寺院・道観・民家では、「門神」が描かれるが、それと同根の思考パターンだろう。"(2枚扉は秦瓊と尉遅恭で、1枚扉は魏徴か鍾馗。もともとは「桃符」だったが、時代背景、地域、居住者の仕事、等々に合わせて、最適な像に転換される。日本の伽藍の場合は警護役は金剛力士が基本のようだ。神社も伽藍化すれば、「随身門」が設置される。平仗を佩びた警護役の看督長[俗称では左大臣と右大臣]像が門守。位置付けとしては神。)

1つ目が長くなったが、2つ目に移ろう。
こちらは一対の入口標柱(台座+蟠龍柱+承露盤+蹲獣像[望天吼/竜子])。門と似てはいるが、祭祀を挙行するために設置されたものではない。全く別な系譜だが、門に取り込んでしまうことは可能である。(現代日本の鳥居の主流は、集落の神とされている氏神様の社殿の存在を示す標柱ということ。)

門にしても、祭祀を止めてしまえば単なる標章でしかないから両者に違いは無いように見えてしまうが。
入口標柱の始原はトーテムポールだが、帝国の威厳を示すための建造物になると、部族的雰囲気を感じさせないようするからその面影は消えてしまう。当然ながら、普通は龍の装飾がほどこされる。鳥は例外。
名称は、華表/桓表/表木。
配置される場所は、主に陵墓に通じる道路脇だが、宮殿に向かう幹線道路や橋梁にも。
発祥から考え、その目的は伏魔除邪だろう。従って、原則的には邪を封じる朱を塗る必要がある。ただ、朽ちないように石柱化にするとそれができなくなるが。
その代わり、朱塗り習慣は天子居住区の木製門に取り入れられることに、ということでは。
尚、標柱時代はあくまでも木柱であるから数詞では双本だろうが、門的に映るようになれば対勘定せざるを得ず、1基となる。この数え方が門にも適用されることになる。

こうして眺めてくると、何故に日本に2つの形式の鳥居が存在するのかが読めてくるのでは。
最初に書いたように、出自は不明という見方は正しいが、出自はわからないということでもないのである。"Yes or No?"と尋ねられたら、"Or."と答えるしかない。それは、日本の信仰が大陸とは全く違うからである。
簡単に言えば、インドは多神教。そこには神同士の熾烈な競争が常にあり、発祥の地では、仏様は地位を護れなかったに過ぎない。
一方、中華帝国は儒教ベースの安定化した多神教。天帝だけ見れば一神教的だが、造物主ではないから、神々の官僚的ヒエラルキーのなかで頂点に位置しているだけにすぎない。だからこそ、一大帝国樹立可能ということでもあろう。
しかし、朝鮮半島は血族=氏族を第一義とする儒教的宗族信仰一色。恐らく遊牧民的精神風土。中華帝国の傘下だったから見かけ多神教だが、中華思想を受け入れ易かったから、見かけだけ。高句麗文化を消し去ってしまったから、独自文化は歴史が浅く、支配層の外来文化の変化形でしかない。しかし、儒教的宗族信仰である以上、それを認めることは無い。
日本は、汎神教を基盤とした多神教である。神同士の競争はあるものの、併存が原則である。様々な地から渡来した高級難民のハイブリッド民族としては、それが一番しっくりくるのであろう。
日本にはこうした文化的にかなり異質な地から様々な考え方や風習が流入してきた訳だ。中華帝国では王朝が変わると今迄の風俗や慣習が捨て去られることが多いが、日本に渡来して受け入れられていると、大事に守られていたりする。
鳥居の出自を考えるにあたっては、こうした見方をしないと、見誤ることになると思う。
[→鳥類分類で見る日本の鳥と古代名]

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