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■■■ ジャータカを知る [2019.6.20] ■■■
[102] 阿含経典
パーリ語であることの意味について考えてみたが[→]、なんといっても重要なのはソレが詩篇を詠ずる言語である点。くどいが、そのポイントを繰り返しておこう。

散文は筋立てや規則を示すには、誤解を生まないように伝えることができる点では優れているものの、それだけのこと。一方、韻文はソレなれではの美しさがあり、心が揺さぶられることが少なくない。従って、翻訳文では原文の音の美しさは消えてしまい、下手をすれば味もソッケもない粗筋紹介文になりかねない。それだけならよいが、美しさのための技法が組み込まれていると、意味を間違って受け取ったりしかねないから要注意である。

日本語を考えてみればわかる。
日本語社会に入り込む気がある人なら、おそらくすぐに使える易しい言語の筈だ。互いに、何を言いたいか推し量って会話が成り立つ仕組みだからだ。しかし、語彙は多義だし、主述の位置も確定していない上に、省略もアリだから決して簡単に習熟できる訳ではない。話し手と聞き手の感覚が揃わないとコミュニケーションギャップが生まれやすいのは間違いない。
パーリ語もこれと似たところがあろう。
語義は複数あるから、どう見ても、状況に応じた判断が要求される。さらに厄介なのは、日本語同様に名詞の修飾語が前に付く点。しかも、助詞なしの名詞がいくつも並んでしまう場合があり、こうなると意味はいかようにも。
だが、その表現だからこそ、余計な音をカットし、音韻的な心地よさも生まれる。パーリ語での詩篇詠唱が感興を引き起こす訳で、その文化に浸っていないと味わえない愉悦なのは間違いない。

日本語の、こんな文章に相当すると考えるとよいのでは。・・・
  八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に
    八重垣作る その八重垣を [須佐之男命「古事記」]
   :
  学門の 自由はこれを 保証する [日本国憲法 第23条]

ただ、詩の愛好度、あるいは詩人への尊崇の念という観点では、日本はインドにとうてい太刀打ちできまい。そんな風土の地であるから、経典にしても、唱えて嬉しい詩になっていなければ、愛されることなどありえまい。
それを考えると詩篇で成り立っているパーリ語ジャータカの威力は相当なものだったろう。
つまり、ジャータカとは、人々の琴線に触れた伝承詩の編纂経典ということ。
(小生は、ジャータカを民話集とか童話の類とは見ない。唐代の"事実"を集めた書「酉陽雑俎」を妖怪博物学的奇書と呼べないのと同じこと。)

なかでも注目すべきは、登場する動物の描き方。
民話のような一方的決めつけイメージではなく、個体差が大きいことを見抜いている。しかも、ヒト以上に悟るべく精進していたりする。
このことは、現代で言えば、犬と猿が仲良しだったり、猫が栗鼠を育てたり、ライオンと羊が遊んで生活するような例外的事象をご存知だったことを意味していよう。普通に観察していても、多くの動物が、喜怒哀楽感情を持っている可能性は否定しがたいものがある訳だし。と言うのは、どう見ても動物は遊ぶし、悪戯好きな個体も少なくないからだ。
釈尊の、その辺りの観察力は鋭いものがある。動物王とは比喩ではなく、現実にリーダーが存在していることを知っていたと言う事でもあるし。つまり、動物の個体認識力が並外れていたのである。

繰り返すが、そこで重要なのは、そんな話を詩として語った点。

説法を聴きに来た人々は、これを何よりも楽しみにしていたに違いない。しかも、それは現在直面している悩み解決の糸口的な内容だったりする。
教義を頭に叩きこませるために、工夫して作りあげた説話色は微塵も感じさせないのだから、そこで湧き上がる釈尊尊崇の念は極めて自然な感情と言ってもよいだろう。

教団の規定集である"律"は別として、本来、インドの仏典の核はこうした詩篇ではないかと思う。

後世、そこに哲学や"信仰"が乗せられ、我々の概念での、散文の"経典"ができあがったのではなかろうか。

そう考えると、ジャータカこそが、釈尊信仰の息吹に触れる最良の仏典ではないかと思う。

他にも詩篇はあるものの、理解は難しいからだ。
(パーリ語「阿含経」は、口伝を文字化したという意味の経典集であり、釈尊の言葉を直接伝えている可能性が高い。ジャータカはそこに含まれる。末尾参照。)

例えば、「ダンマパダ」だとこんな具合の詩になる。・・・
   「象」
 私は黙し 耐え忍ぶだけ
 戦いさなか 放たれし 弓矢を耐える 象というべし
 病んだ心の 人の世なのだ
  :

釈尊の生き方に共感を覚える人達にとっては美しく心に響く法句なのだろうが、詩のみだから、その意味を解説してもらう必要があるが、どうしても、現代の眼から眺めている感覚が生まれてしまう。

一方、「ウダーナ」の場合は、長い状況説明の散文があり、最後が偈で、イメージ的にはこのような風合いになろう。・・・
  [第6品 生盲 第9偈 突進]
漆黒の闇夜。長者の園地で野外に坐す釈尊の周りには燈明。大勢の蛾が集まり、油の中に次々と落下。まさに不運と災危の図。
それを見た釈尊は道理を唱えられた。・・・
  猪突猛進
  本質欠落
  桎梏万来
  如火取虫
  落下火焔
  見聞盲信

経典の基本形式はどうしても問答になってしまうが、こちらは感興に催されて、自発的に発した偈。翻訳するとその息吹は消滅してしまうが。

--- パーリ語 経蔵Sutta Pitaka ---《阿含経Āgama五部Pañca Nikāya
 「長部Dīgha-Nikāya…長編集 3篇34経
 「中部Majjhima-Nikāya…中編集 3篇15品152経
 「相応部Saṃyutta-Nikāya…短編集 5篇56相2,875経
 「増支部Aṅguttara-Nikāya…議題[法]毎の短篇経典集 11集(170品+16略品 数千項目)
 「小部Khuddaka-Nikāya…残余雑集 15(+3)部
  ○クッダカ・パータKhuddaka-pāṭha[小誦]…9経
    (三帰依 十戒 三十二身分 問沙弥文 吉祥経 宝経 戸外経 伏蔵経 慈悲経)
  ○ダンマパダDhammapada[法句]…26章 423詩節
    (雙 不放逸 心 花 愚 賢者 智者 千 惡 罰 老 自己 佛陀 楽 愛欲 忿怒 垢穢
     法住者 道 雑 地獄 象 渇愛 比丘 婆羅門)
  ○ウダーナUdāna[感興偈]…8品 散文解説付80
    (菩提 目渣連達王 難陀 彌姫雅 梳那長老 生盲 小 栢達利村人)
  ○イティヴッタカItivuttaka[如是語]…4篇112項 "如是我聞"形式短文
  ○スッタニパータSutta-nipāta[経集]…5章(蛇 小 大 八 彼岸道)
  ○ヴィマーナヴァットゥVimāna-vatthu[天宮事]…2篇(女天宮 男天宮)
  ○ペータヴァットゥPeta-vatthu[餓鬼事]4品…(蛇 無花果 小 大)
  ○テーラガーターThera-gāthā[長老偈]…21篇264偈頌
  ○テーリーガーターTherī-gāthā[長老尼偈]…16篇73偈頌
  ○アパダーナApadāna[譬喩]…長老28品+長老尼56品 仏弟子前生題材の詩篇
  ○ブッダ・ヴァンサBuddha-vaṃsa[仏種姓]…25過去仏の種姓・因縁・一代記の詩篇
  ○チャリヤー・ピタカCariyā-piṭaka[所行蔵]…3篇356項目371(準本生譚)
  ジャータカJātaka[本生譚]…22篇547譚
  ○ニッデーサNiddesa[義釈]…舎利弗口伝"経集"注釈 2篇356項目371
    (マハーMahā[大] チューラCūḷa[小])
  ○パティサンビダー・マッガPaṭisambhidā-magga[無礙解]
    …舎利弗口伝"修業体系" 3品(大 倶存 慧)
 場合によって事実上「蔵内」扱(@スリランカ+2 @ビルマ+3)…論議反駁を招来させる書
  ○ネッティパカラナNettipakaraṇa[導論]…迦旃延作の教理書
  ○ペータコーパデーサPeṭakopadesa[蔵釈]…注釈8篇
   (B.C.2世紀ギリシャ系メナンドロス1世@アフガンと比丘 那先の問答記録)
  ○ミリンダ・パンハMilinda-pañha[弥蘭王問]…「ミリンダ王の問い」
 「蔵外」
   [島史] [大史] [小史]
   [清浄道論] [一切善見律註序] [摂阿毘達磨義論] [阿育王刻文-法勅]

言うまでもないが、上記「蔵外」とは「三蔵(律+経+論)」に収載されていないという意味である。律は教団の戒律で、論は弟子達による教義/経典の解説である。

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