→INDEX ■■■ 今昔物語集の由来 [2020.12.10] ■■■ [附56] 仏教伝来考 「今昔物語集」の記載は"538"どころか、対抗馬である"552"にも触れておらず、結構、大胆な試みと思うので。 と言っても、本朝仏法部冒頭譚で、軽く記載されているに過ぎぬが。・・・ 聖徳太子は、敏達天皇即位年[572年]正月誕生。 6才の時、 "百済国より僧来て、経論を持渡れり。" となっているだけのこと。 史書[「日本書紀」]では、聖徳太子/厩戸皇子[異母兄妹の用明天皇/橘豊日皇子・穴穂部間人皇女の子]の誕生は、敏達天皇3年[574年]とされており、若干の差異があるのは止むを得ないものの、公伝時として記載されている欽明天皇13年壬申=552年を無視している。 552史書と違うことを問題にしているのではなく、最澄[「顕戒論」]も空海[「高野雑筆集」]も公伝を552年としており、あからさまにこれを無視したからだ。 普通に考えれば、たとえ違っていると思ったところで、その事に大した意味などないから、わざわざ違う年を重視する発言は避けるもの。 現代では、552年を否定し、538年説を肯定する意見が多そうだが、それは後世訳経典名が記載されていて明白な潤色がある以上、年号だけは正しいとの論拠を欠くからに他ならない。 538しかし、538年説にしたところで、信頼性の評価は難しい。欽明代らしき記載になっている上に、(7年)戊午年とされているからだ。[「上宮聖徳法王帝説」「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」]戊午の該当年が無いので、(宣化天皇代)538年と解釈している訳で。 577そこへ、「今昔物語集」は太子6才の時という記述できた訳である。 思うに、史書の敏達天皇6年=577年の記載に従ったということでは。 百濟國王付還使大別王等。 獻經論若干卷并律師。禪師。比丘尼。咒禁師。 造佛工。造寺工六人。遂安置於難波大別王寺。 [「日本書紀」卷二十] そこで、577年に「太子6才にして経典受け取り。」と高らかに打ち出したのである。 しかし、国家の代表権が無い太子の受領であるかないかにかかわらず、この手の伝来を、仏教公伝としてよいか考えておく必要があろう。 経典受領者が、僧ではなく俗人で、それ以上のことが記載されていないからだ。 仏教は、師僧が弟子僧に相伝することで伝承していく仕組み。俗人が俗人に、経典や仏像を渡すことを"伝承"と見なす訳にはいくまい。公伝か私伝という話とは次元が異なるのである。つまり、伝来譚には、必ず、経典を扱う僧や組織の話が付随してしかるべきということ。 そうでなければ、本朝では僧から弟子への相伝の仕組みは無意味ということになりかねまい。 常識的な仏教のコンセプトからすれば、かなり違和感を覚える見方なのだ。 584その上、初の仏殿にしても、俗人が、わざわざ、播磨國に居た還俗俗人に仏殿を建立させたようだし。引用しなかったが、そこに女性を出家"させた"と。 (敏達)13年[584年]・・・播磨國得僧還俗者。名高麗惠便。・・・ 馬子獨依佛法。・・・ 馬子宿禰亦於石川宅脩治佛殿。 佛法之初自而作。 [「日本書紀」卷二十] 522尚、史書の公伝年には、司馬達等(止利仏師祖父)の崇仏の話も掲載されているが、それは継体天皇代522年に渡来した人物との話もあるらしい。[「扶桑略記」] さらに、讃が宋に派遣した国使司馬曹達が祖と見る人もいるようだ。ともあれ、時期ははっきりしないが、渡来帰化人だろうから、もともと仏教信仰者の一族だった可能性は否定できない。僧を伴って渡来していたりして。 「今昔物語集」ではこの辺りを突いているのかも。 震旦と違って、本朝では"初"相伝の状況を記載できないのは、ここらが原因ということで。 このことは、「今昔物語集」編纂者は「隋書」卷八十一6列傳46東夷[6倭國]を読んでいた可能性を感じさせる。 人頗恬靜,罕爭訟,少盜賊。 樂有五弦、琴、笛。 男女多黥臂點面文身,沒水捕魚。 無文字,唯刻木結繩。 敬佛法,於百濟求得佛經,始有文字。 知卜筮,尤信巫覡。 毎至正月一日,必射戲飲酒,其餘節略與華同。 好棊博、握槊、樗蒲之戲。 氣候温暖,草木冬青,土地膏腴,水多陸少。 本朝に文字表記が導入された時期は不明ではあるものの、聖徳太子の頃はすでに漢文が普通に使われており、この記載からすれば、かなり昔、すでに本朝に経典が入って来ていたと考えるべきではなかろうか。 史書は、"公伝"時期を明確に記載する必要があり、智慧を集めて結局のところ552年にした訳だが、「今昔物語集」の視点は本朝社会に於ける結節点を示したかったのだろうから、552年は無視されることになる。 そこで、577年をイの一番的に記載したのだが、それは経典が"公的"に宮中に献上されたという事績でしかない。このことは、"私伝"は相当に前からある、と書いているようなものでは。 そして、同時に公伝的時点では、太子は国家を代表する地位に着いてはおらず、私人であることを強調していることになる。 太子の伯父、崇峻天皇の位に即給て、世の政を皆太子に付奉り給ふ。 このことは、聖徳太子誕生以前に、"私伝"に由来する社会的基盤がすでにでき上がっていることを意味してはいないか。伊勢や出雲での神仏習合の動きは古いとされていることだし。 その上で、"公伝"が準備され、聖徳太子が最終的に社会を一変させる一手を打ったことになろう。確かに、文字通りの結節点である。 その"私伝"の時期であるが、海外との交流が特筆モノだったのは、「古事記」からすれば、応神天皇代📖[15]軽嶋明宮@古代の都となるが、継体天皇の時代に半島経由で一気に入って来たと考えるのが自然な気がする。 ○[26]継体天皇 即位507年 ├┬┐ ○[27]安閑天皇 即位531年 ┼○[28]宣化天皇 即位536年 ┼┼○[29]欽明天皇[509-571年] 即位539年 ┼┼│ [勅]伊勢皇大神宮奥之院 ┼┼│ /金剛證寺[朝熊山修験](暁台開基)⇒825年空海道場化 ┼┼├┬┬┐ ┼┼○[30]敏達天皇 即位571年 ┼┼┼○[31]用明天皇[n.a.-587年]即位585年 ┼┼┼│○[32]推古天皇 即位593年 ┼┼┼│┼│ [勅]出雲杵築大社本寺 ┼┼┼│┼│ /鰐淵寺[浮浪滝修験}594年(智春開基) ┼┼┼│┼○[33]崇峻天皇 即位587年 ┼┼┼│ ┼┼┼○聖徳太子[574-622年] (C) 2020 RandDManagement.com →HOME |