→INDEX ■■■ 今昔物語集の由来 [2020.10.5] ■■■ [463] 仏教公伝 欽明天皇代に百濟聖明王からの佛像・経論を受領したとの記載は共通しているものの、年号が一致していないからだ。 ○志癸島天皇代戊午年@「上宮聖徳法王帝説」「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」 ❓ 戊午年=538年 ❓ 欽明天皇代=540-571年 宣化天皇代=536-539年 ○欽明天皇代552年@「日本書紀」 「今昔物語集」編纂者はこれに気付いたのではなかろうか。 そこで、「今昔物語集」では、本朝での受領はあくまでも聖徳太子。・・・ ●[巻十一#_1] 聖徳太子於此朝始弘仏法語📖本邦三仏聖 📖弥勒菩薩 用明天皇と申ける天皇の、始て親王に御ける時に、 穴太部の真人の娘の腹に生せ給へる御子なり。 ○太子、六歳に成給ふ年、 百済国より僧来て、経論を持渡れり。 ○太子、太子、八歳に也給ふ年、冬、 新羅国より仏像を渡し奉る。 ○百済国より弥勒の石像を渡し奉たり。其の時に、 大臣蘇我の馬子の宿禰と云ふ人、此の来れる使を受て、 家の東に寺を造り、此れを居へて養ふ。 ともあれ、仏教経典は奇跡的に渡来したのではなく、百済から運ばれて来たのである。その時点では、聖徳太子はまだ幼少だったということになる。 欣明天皇は祖父であるとはいえ、これはかなりの無理筋。 欣明天皇[509-571年] └用明天皇[n.a.-587年] ┼└聖徳太子[574-622年] このことは、仏教公伝は欣明天皇代ではなく、親仏姿勢の用明天皇代と見ている可能性もある。 そう思うのは、結構重要そうな別な譚でケアレスミス的な記載があるからだ。・・・ ●[巻十一#16] 代々天皇造大安寺所々語📖南都の寺 (後半欠文) ○聖徳太子、熊凝の村に寺を造給ふ。 ○欽明天皇の御代に、 百済河の辺に広き地を撰て、彼の熊凝の寺を移し造給ふ。 是を百済大寺と云ふ。 明らかに、欽明ではなく、舒明で、故意に間違えたのではないか。現代人でもあるまいし、このようなミスはほとんど考えられないと思うからだ。 28代宣化天皇 29代欽明天皇…御子が次の4代[30〜33]の天皇 30代敏達天皇…廃仏派 31代用明天皇…崇仏派 32代崇峻天皇 33代推古天皇 34代舒明天皇 【附記:591年】 聖徳太子が本朝での仏教の始まりとみなした時点は法興元年(591年)かも。史書に登場しないし、初年号とされる大化(645-650年:孝徳天皇)以前なので私的年号扱いだが、大化同様、今上天皇治世を寿ぐ瑞兆を示す訳ではない点で画期的。孝徳○年的表記を代替したのだから。・・・ 「釈日本紀」(「伊予国風土記」逸文[道後温泉碑文]) 法興六年十月 ・・・(聖徳太子伊予の村の温泉に遊ぶ。) 法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘造像記 法興元卅一年歳次辛巳十二月、鬼前太后崩 太子像胎内納入文書、等々 (C) 2020 RandDManagement.com →HOME |