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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.12.5] ■■■
[附52] 地蔵信仰の道教性
提到:「西游記/西遊記」には地藏王菩薩が登場する。
 萬,有冥司秦廣王奉幽冥教主 地藏王菩薩表文進上。
   [@四海千山皆拱伏 九幽十類盡除名]
ところが、玄奘:「大唐西域記」には地蔵菩薩の記載は無い。従って、この頃の天竺では、地蔵独尊の信仰は当時とんどなかったと見るしかなかろう。
にもかかわらず、玄奘は地蔵経典の翻訳を行っている。
(「高僧法顕伝」や「南海寄帰内法」にもッ地蔵菩薩の記載が無いらしい。)
なんとも不思議な現象と言わざるを得まい。

地蔵信仰が震旦で立ち上がって来たので必要に迫られたということか。

そんな震旦での信仰の大元は、通称名十王経らしい。追善供養と早逝した親族供養のための経典として人気を集めたようだ。前者は儒教の宗族第一主義信仰とは違うものの、儀式の目的は類似ということで、布教がし易かったのだろう。
言うまでもなく、これは地獄の十王/十殿閻羅の概念に基づいており、天竺由来の訳がない。震旦各地の土着信仰の寄せ集めたる道教の冥界観念を仏教勢力が取り入れられて成立したと考えるしかなかろう。
 【震旦撰仏教経典】
   「閻羅王授記四衆逆修生七往生浄土経
/預修十王生七経
 ≒
 【道教経典】
   「元始天尊説都滅罪経」+
   「地府十王抜度儀」+
   「太上救苦天尊説消愆滅罪経」


地獄十王の仕組みは、いかにも、中華帝国官僚統治機構そのもの。
震旦の仏教徒としても、この手の概念をママ受け入れるのは自己矛盾以外の何ものでもなかろうが、そのような社会風土である以上、いかんともし難し、というところ。
「酉陽雑俎」を読むと、その感覚がよくわかる。
  📖道教的地獄@「酉陽雑俎」の面白さ

地蔵経典は、この十王経の上に被さる形で成立したようである。道教的には、地府主宰の閻王の上司が任命されたようなもので、階層が一段増え最高領導者が登場してきたに過ぎない。もともとヒエラルキーの重層緻密化を好む体質があるからその動きは大歓迎された可能性が高い。喪事や死者冥福供養、清明節の掃墓行事、さらには中元節酬謝大地祭といった各地毎の風習に経典的裏付けが備わり、威厳が高まることになるからである。

もちろん、地蔵菩薩自体は天竺発祥であり、ベーダ経典に依拠した上方梵天・下方地天に由来する概念と見て間違いないだろう。天部に収まり切らない重要性があり、その辺りに該当する菩薩として設定されているのが"天=虚空"蔵と"地"蔵ということになる。
ただ、虚空蔵は独尊としての信仰が生まれたが、地蔵は天地一対の組としての信仰止まりだったようである。

この流れは、上記の地獄の十王と直接つながってはいない。

それがわかるのが、胎蔵界曼荼羅。9菩薩構成の地蔵院@北が存在し、隣接は虚空蔵院@西と釈迦院@東である。
この院では、すべての菩薩が有髪で、装身具を付けており、一般菩薩型。中央の地蔵菩薩の持物"如意宝珠"が何でも願い事を叶える力を意味していると思われる。
  📖胎蔵曼荼羅[9]地蔵菩薩

従って、上記の十王経につながる地蔵関連経典は、震旦で別途、磨かれたと見ることができよう。
<経典>
【天竺撰】那連耶舎@隋[譯]:「大乗大方等日藏經/大方等大集經16号巻五十七弥蔵分
【天竺撰】[佚書]n.a.:「大方廣十輪經」4世紀か?
【天竺撰】玄奘[譯]:「大乗大集地蔵十輪経」651年
【本朝撰】藏川[撰抄]:「佛説地藏菩薩發心因縁十王經」…本朝的冥府
【震旦撰】實叉難陀[譯]:「地藏菩薩本願經」唐代年代不詳
【震旦撰】n.a.:「占察善悪業報經」6世紀末…木輪相占(現世利益)
【本朝撰】不空[譯]:「延命地蔵菩薩経」12世紀か?
…釈迦と地蔵菩薩とのやりとりが終わると、三千世界が振動し、文殊菩薩、普賢菩薩、金剛蔵菩薩、虚空蔵菩薩、聖観音菩薩、続いて梵天、帝釈天、四天王がこの経典と地蔵菩薩を信じる衆生の願いを叶え、護っていくと誓いを立てた。
<儀軌>
輸婆迦羅@中天竺[譯]:「地蔵菩薩儀軌」
 [偽作?]不空:「地蔵儀軌」
<霊験記>
常謹:「地蔵菩薩像霊験記」989年
実睿@三井寺:「地蔵菩薩像霊験記」1057年
○「矢田地蔵縁起」13世紀
…矢田寺@大和郡山に9世紀初頭、満米/満慶上人により地蔵菩薩像安置との寺伝。檀越は小野篁。[802-852年:巻二十#45]

尚、本朝の地蔵の形相は、端正な小僧姿で独自かと思っていたが、震旦で道教的冥界信仰が断ちあがった時に、剃髪の僧形だったらしく、ママ伝わったようだ。
道教的冥界観からすれば、天人姿で冥界に菩薩登場では違和感があり過ぎということなのだろう。ただ、官僚システムであるから、毘盧冠を着けて"菅"としての威厳を示す必要はあろう。・・・
【一般菩薩】…天人相
  宝冠
  天衣
  瓔珞

【地蔵菩薩】
 早期@敦煌・龍門石窟…出家僧形相
 唐代以降
  光頭+毘盧冠
  袈裟
  持物:右錫杖 + 左宝珠
(蓮花/幢幢)
本朝の場合、夭逝した子供への哀悼の念が強く、現世でなんの善行も行えなかった人々をなんとしても救って欲しいとの強い気持ちから、赤子と相性が良い寺の小僧に活躍して頂くことになったのではないか。
宗族第一主義宗教の社会ではあり得ない動きといえよう。
そう思うのは、明治維新期に、津々浦々まで地蔵石像を探し出して、その頭を粉々に砕く人々が存在したことが知られているから。
【参考】
現代中国の一大観光地 九華山@安徽青陽は李白の時代から聖地とされている。峰々に囲まれた山腹盆地に建立された地蔵菩薩を祀る数多くの寺への参拝という伝統は継承されてはいるようだ。
と言っても、紅衛兵に、岩洞以外、すべて破壊し尽くされた筈で、一大聖地だった明・清期の記録に基づいて造られたもの以上ではない。震旦では天子や王朝が替われば、すべてがご破算になる風土であり、現状から唐代の信仰を推定すべきではないが、なんらかの参考にはなるかも。・・・
現在の主参詣先は肉身殿(即身仏を祀る廟)である。安置されている地蔵菩薩は僧形。一角霊獣の"諦聴/地聴"[頭は虎、角は犀、体は龍、尾は獅子、脚は麒麟]に騎乗あるいは従者にしている。「西遊記」に登場し、すべての善悪を知り、賢愚を見抜く能力ありとされている。新羅人金喬覚が連れて来て、入滅迄付き添った白犬との説もあるようだ。
  時有僧地藏,則新羅王子金氏近屬,項聳奇骨,長七尺,而力倍百夫。
  [費冠卿@唐:「九華山化成寺記」@「全唐文」巻六百九十四]
   他:[「宋高僧伝」巻二十唐池州九崋山/九子山@安徽青陽化城寺地蔵伝]
(金喬覚の出自は王子ではないようだ。山民が石室修行の聖人に寺を寄贈し、781年化城寺と銘が与えられた。僧 地蔵は794年入滅。3年後開棺した姿から地蔵菩薩化身と見なされるようになったとされている。)


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