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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.12.1] ■■■
[附50] 大友皇子鎮魂
「今昔物語集」巻尾譚📖目次はなんだかよくわからない話で、尻切れ蜻蛉状態。
最後を飾るという発想はないゾ、と言うにしても、もう少しなんとかしそうなもの。

拾遺の巻ということである程度は致し方ないにしても、余りに突拍子もない話。一寸目には、収載する必要性がほとんど感じられないほど。
半網羅的に眺めようとしているので、一応、小生的にはそれなりの見方で取り上げてはみたものの、全体構成を考えるとどうもしっくりこない。
  【本朝世俗部】巻三十一本朝 付雑事(奇異/怪異譚 拾遺)
  [巻三十一#37] 近江国栗太郡大柞📖大柞
と言うことで、何か示唆している筈と、しばし考えていたが、ついに小生なりの結論がついたので書いておくことにした。

筋は単純で、丹波〜伊勢にまで日照に影響が出るほどの、稀有な超巨木が、農民からの要請に応えた朝廷によって、伐採されたというだけの話。
森林伐採され開墾が進む過程を示しているように映る話だが、場所が近江国栗太郡なのである。ここは、琵琶湖から出水し、水運で瀬戸海に出る瀬田川の東側地域に位置する。大木であるから、丘陵に生えているのだろうが、巨木だから川沿いの目印的存在だったに違いない。
注意すべきは、ココは地理的要衝地である点。山の巨木というイメージではなく、港の目印という位置付けと考えた方がよさげ。
そうなると、穀倉地帯化のための伐採と言うより、燃料や建材用の"維持"された御用樹林だった可能性があろう。
つまり、急遽、御用樹林の方向変換が図られたことを意味する譚ということになる。

そんなことも考えていて、ふと、以下を引用している旧ブログ庫@2012.4.10に出会った。「栗太郡志」等では見かけなかった記述である。
 [「改正滋賀縣管内 栗太郡誌」(中学校教科書1884年@滋賀大学教育学部所蔵)]
  安養寺山ハ安養寺村ノ南ニ聳エ
  其西北ニ灰塚山アリ
  土人傳フ古ヘ大友與多王ヲ火葬シ其灰ヲミシ所ト、
  與多王ハ弘文天皇ノ子ナリ

これを読めば、なんだ、そういうことかとなるではないか。

灰塚山の地名は勿論現存しており、土着の人々からすれば、それは「今昔物語集」の伐採大木を焼却した灰の山から来た名称ということになろう。(よくある、後世の物知りによる後付けと解釈する訳だが。)
しかし、当該地域の"正規"の伝承が存在していたのである。弘文天皇/大友皇子の皇子、与多王の火葬の灰とされているのだ。(実態としては、鉄器鍛造に伴う灰の集積場だと思われるが。)
もちろん、日本書紀には記載されていない御子だから、大友皇子の怨霊の可能性もなきにしもあらず。ところが、三井寺/園城寺の開基として伝わっている。皆、それを認めているにもかかわらず、人物情報はほとんどない。

成程。

つまり、栗太郡には大友皇子の重要な所領があり、渡来系皇族大友氏の勢力圏が、この大木の陰とされる一帯ということになろう。(天智天皇御子/大友皇子笠置寺創基譚は別途収録されている。)📖弥勒菩薩
与多王は、敗戦し自殺に追い込まれた父の菩提を弔うため、三井寺を創建したが、それは同時に、勝者の大海人皇子/天武天皇が大友皇子鎮魂のために行った造寺行動でもある。おそらく、大友一族勢力圏の財を没収し、そのすべてを三井寺に注ぎこんだのであろう。
比叡山の財政のかなりの部分を、当初から近江国が支え続けて来たことになる。それが、僧を続出させた比叡の仕組みの大元。

はっきりしていないが、本朝独自の地蔵信仰のプロモーターの原資もここらという可能性も。与多王が端正な容貌の小僧のモデルだったりして。
(そんな想像をついついしてしまうのは、明治維新期に、地蔵石像を探し出し、片っ端から頭部を粉々に破壊する人々が突如として現れたからである。)

・・・「今昔物語集」は、この三井寺縁起で"完"。

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