→INDEX ■■■ 今昔物語集の由来 [2019.12.14] ■■■ [167] 弥勒菩薩 この程度の簡単な定義は知っていても、馴染みが薄いので、イメージが湧きにくい菩薩だ。 以下の譚で、どのような存在なのか多少はわかる気がしないでもないが、そう簡単に理解できるものではない。 【天竺部】巻四天竺 付仏後(釈迦入滅後の仏弟子活動) ●[巻四#27]護法清弁二菩薩空有諍語 ⇒玄奘:「大唐西域記」@646年 十 馱那羯磔迦国ダーニヤカタカ 二、清辯故事 城南不遠有大山巖,婆毗吠伽(唐言清辯。)論師住阿素洛宮待見慈氏菩薩成佛之處。 論師雅量弘遠,至コ深邃,外示僧佉之服,内弘龍猛之學。 聞摩揭陁國護法菩薩宣揚法教,學徒數千,有懷談議,杖錫而往。 至波咤厘城,知護法菩薩在菩提樹,論師乃命門人曰: 「汝行詣菩提樹護法菩薩所,如我辭曰: 『菩薩宣揚遺教,導誘迷徒,仰コ虚心,為日已久。 然以宿願未果,遂乖禮謁。 菩提樹者,誓不空見,見當有證,稱天人師。』」 護法菩薩謂其使曰: 「人世如幻,身命若浮,渴日勤誠,未遑談議。」 人信往復,竟不會見。 論師既還本土,靜而思曰: 「非慈氏成佛,誰決我疑?」 於觀自在菩薩像前誦《隨心陀羅尼》,絶粒飲水,時歷三歲。 觀自在菩薩乃現妙色身,謂論師曰: 「何所誌乎?」 對曰: 「願留此身,待見慈氏。」 觀自在菩薩曰: 「人命危脆,世間浮幻,宜修勝善,願生睹史多天,於斯禮覲,尚速待見。」 論師曰: 「誌不可奪,心不可貳。」 菩薩曰: 「若然者,宜往馱那羯磔迦國城南山巖執金剛神所,至誠誦持《執金剛陀羅尼》者,當遂此願。」 論師於是往而誦焉。三歲之後,神乃謂曰: 「伊何所願,若斯勤勵?」 論師曰: 「願留此身,待見慈氏。觀自在菩薩指遣來請,成我願者,其在神乎?」 神乃授秘方,而謂之曰: 「此巖石内有阿素洛宮,如法行請,石壁當開,開即入中,可以待見。」 論師曰: 「幽居無睹,詎知佛興?」 執金剛曰: 「慈氏出世,我當相報。」 論師受命,專精誦持,復歷三歲,初無異想,咒芥子以撃石巖壁,豁而洞開。是時百千萬衆觀睹忘返, 論師跨其戸而告衆曰: 「吾久祈請,待見慈氏,聖靈警祐,大願斯遂,宜可入此,同見佛興。」 聞者怖駭,莫敢履戸,謂是毒蛇之窟,恐喪身命 浅学の者には、註があっても、主旨を読み取るのははなはだ難しい箇所だ。簡単な解説はあればかえってさらなる疑問を呼ぶだけでは。 マ、「今昔物語集」編纂者はこんな風にまとめたかったのだろう。・・・ 世親菩薩の弟子 護法菩薩の主張は「諸法は有。」 提婆菩薩の弟子 清弁菩薩の主張は「諸法は空。」 護法は「兜率天の弥勒に判定してもらおう。」と。 清弁は「弥勒は菩薩。問うべきでない。悟りを開いてから。」と。 そして、観音像を前に水浴断穀、随心陀羅尼を誦し 開悟した弥勒にお会いしたいと3年に渡り祈願。 すると、観音が出現し、ヒトの命の長さを考え、 善根を積んで兜率天転生を願えと。 しかし、清弁は、今の身のママで待ちたいと言う。 それなら、駄那羯磔迦国 城山の巌の執金剛神のもとへ行き 執金剛陀羅尼を誦すように、と。 その通りにして3年。 執金剛神が現れ、願いを聞き入れ、ここからは、 巌の中の阿素洛宮で法の通りに祈請せよ、と。 そうすれば、石の壁が開くというのである。 暗くて出現は見えなくても、執金剛神が教えてくれるという。 又、3年間、祈願。 洞が開いたので、そこで祈祷して弥勒を待つことにした。 他の人にも誘いをかけたが、 その洞は毒蛇の窟と恐れる人ばかりで 付いて行ったのは6人に留まった。 そして、扉は閉じてしまった。 筋はどうあれ、なんとしても、弥勒菩薩の下で教えを頂戴したいとの真摯な姿勢が見てとれる譚であり、本朝のだいぶ後世にうまれる譚のように、夢で弥勒出現を知るような、安直な話とは質が違う。そこらを感じ取って欲しかったのかも。 【本朝仏法部】巻十五本朝 付仏法(僧侶俗人の往生譚) ●[巻十五#16]比叡山千観内供往生語 [→千観内供] [→比叡山僧往生行儀] たったこれだけの天竺話1つでも、読めば、弥勒信仰が盛んだった様子がしのばれる。 現代のインドに残る遺跡から、初期仏教の状況を想定することは無理がありすぎるが、ガンダーラ@ペシャーワル周辺の遺跡発掘から、仏教美術については、かなりの情報が得られるようになったので、そこらとも照合してみておくとよさそう。ただ、どの時代に当たっている仏教遺跡かで相当に違うかも知れないので注意が必要だが。 [アショカ王時代(仏教文化)⇒バクトリア時代(ギリシア文化)⇒様々な勢力圏傘下] 弥勒像が数多く見つかっており、当時の信仰の主流だった可能性が高い。 仏陀像・・・頭光+簡素な修行僧衣 菩薩像・・・頭光+薄い衣と装身具 弥勒像・・・冠無しの結束頭髪に持物水瓶 菩薩像は貴族/クシャトリヤの出自を示しているのだろうが、弥勒の姿はそれに該当しない。髪のスタイルや持物からすると、司祭階級/ブラフミンと思われる。しかも、倚坐姿が基本だから、西方に於ける玉座にお座りになる姿と考えるのが自然。 さらに、中央アジアから中国にかけてのシルクロード一帯に散見される巨大石仏群でも、弥勒像が数多く存在しており、初期のインターナショナル仏教では最重要信仰対象であった可能性も高そう。このことは、弥勒菩薩と共に過ごすことができる兜率天への往生祈願は相当な広がりを持っていたと見てよかろう。 当然ながら、その信仰は本朝にも到達していた訳で、広隆寺@太秦、中宮寺@斑鳩、野中寺@羽曳野、に現存する半跏像がそれを物語っている訳だ。 しかし、阿弥陀仏信仰が拡がると、弥勒仏信仰は一気にフェードアウトしてしまったのである。 「今昔物語集」は、そこらがわかるように、弥勒菩薩の本朝譚を周到に収録している。 なかでも、象徴的な話は、空海と弥勒菩薩と言えよう。 【本朝仏法部】巻十一本朝 付仏法(仏教渡来〜流布史) ●[巻十一#_9]弘法大師渡唐伝真言教帰来語 弘法大師は渡唐し 青龍寺東塔院の和尚から真言密教を学ぶ。 流布相応して、弥勒の出世・・・ と三鈷を投げる。その地は本邦である。 その後、真言密教は定着。 ●[巻十一#25]弘法大師始建高野山語 [→仙人空海] 弘法大師は金剛峯寺で結跏趺坐入定。 遺言で弥勒宝号を唱えた。 そして、弥勒の化身とされるように。 但し、供養等の善行を積むことで兜率天への往生を願うという程、はっきりした祈願ではなかったようである。 【本朝仏法部】巻十七本朝 付仏法(地蔵菩薩霊験譚+諸菩薩/諸天霊験譚) ●[巻十七#34]弥勒菩薩化柴上給語 近江 坂田の裕福な住人。 「瑜伽論」百巻写書を思い立ったが公私多忙でかなえられず。 そのうち貧困化し、山寺住い。 ある時、樹上に弥勒菩薩像を見つける。 沢山の人々が参詣し、様々なお供物が。 そのお蔭で、写書完成。 ●[巻十七#35]弥勒為盗人被壊叫給語 聖武天皇代。勅命で夜の巡回。 すると、「痛い、痛い」との声。 駆け寄ると、盗人が弥勒菩薩像を破壊中。 盗人が重い罪を犯さないためのご慈悲と見なされた。 「今昔物語集」編纂者は、ここらを理解の上で、本朝の仏像信仰の状況についての話を入れ込んでいると見た。 つまり、弥勒菩薩像は、天竺⇒震旦⇒本朝と渡って来たインターナショナルな特別な像であることを喚起しているということ。慧眼。 中央アジア(ソグド)文化圏は消滅し、朝鮮半島(新羅)は震旦隷属圏であることを、明確にしたと言ってよいだろう。 「酉陽雑俎」は、遠からず仏教は中華帝国からも排斥されると見て執筆されたことは間違いないが、「今昔物語集」編纂者も同じように透徹した眼で世界を眺めているとも言えよう。わざわざ、皇帝という称号を使わずに、天皇と呼んだ所以を考えれば明らか。[→空也譚割愛]さらに、中華帝国には高位の新羅僧が多く、そのネットワークに依拠しているのが新羅の民間交易船であることもよくご存知。朝鮮半島は震旦圏との見方は正しい。 無関係な話をしているように思われるかも知れぬが、ココこそが弥勒譚の肝だと思う。 本朝における弥勒信仰はもっぱら仏像崇拝であり、法華経読誦と称名念仏を根底とする阿弥陀仏信仰とは性格が違う。そして、弥勒仏造像譚や像安置譚を読むと、渡来像信仰が強かったことを感じさせる記載になっている。 玉座としての椅子に座す姿に、遠き世界を感じたこともあったのだろうが。 【本朝仏法部】巻十一本朝 付仏法(仏教渡来〜流布史) ●[巻十一#_1]聖徳太子於此朝始弘仏法語 [→本邦三仏聖] 百済国より弥勒の石像を渡し奉たり。 ●[巻十一#15]聖武天皇始造元興寺語 [→南都の寺] 東天竺で童子が一人で船に乗って弥勒造像。 白木(新羅)国王がこの仏を供養。 さらに、その像を元明天皇[在位:707-715年]が安置。 天竺・震旦・本朝に像が渡ったのである。 これが元興寺弥勒像の由緒譚。 但し、この話のメインは、東大寺に潰されたという点。 ●[巻十一#30]天智天皇御子始笠置寺語 [平安期の寺→] 天智天皇御子が鹿猟に。 騎乗していたが、馬が崖で立ち往生し進退窮まる。そこで誓約。 「若し此の所に座せば、 山神等、 我が命を助け給へ。 然らば、 此の巌の喬に弥勒の像を刻み奉らむ。」 すると、馬が後戻りできたので助かり、 笠を目印に帰ったのである。 後日、その場所を訪れ彫ろうと悩んでいると 天人が登場し助けてくれる。 弥勒像を礼拝し帰る。 これが笠置寺縁起。良弁が繁栄させた。 もちろん、本朝の彫像も行われていることは記されているものの。 【本朝仏法部】巻十二本朝 付仏法(斎会の縁起/功徳 仏像・仏典の功徳) ●[巻十二#11]修行僧広達以橋木造仏像語 [→架橋] 広達は、架橋用材木で阿弥陀・弥勒・観音像を造り 越部の村の岡堂に安置し供養した。 弥勒像の安置話もあるが、指切断で結縁という、現代からすれば特殊な勢力が愛好する方法が行われている点が特筆もの。血を嫌う風土だから、血盟は日本古来の風習ではないと思うが。 ●[巻十一#29]天智天皇建志賀寺語 天智天皇は大寺を起され、丈六の弥勒像を安置。 右の名無し指を奉納。 それを棄てた別当が狂い死に。 寺の霊験も失せる。 牛が天竺の法事儀式規定通りの挙動という話もあり、そのお寺に安置されているのは彌勒仏。当然ながら参詣者の祈願は、兜率天往生である。 ●[巻十二#24]関寺駈牛化迦葉仏語 [→逢坂山越の寺] 関寺の仏は弥勒。 掌を合せて、一念の心を発して礼む人は、 必ず当来の弥勒の世に生るべし。 (C) 2019 RandDManagement.com →HOME |