→INDEX

■■■ 今昔物語集の由来 [2020.1.10] ■■■
[附 3] 「ガリバー旅行記」的
🎭李公佐:「南柯太守傳」は、現代的には一種の「ガリバー旅行記」。現世と幻想世界を対比させ、国家という概念を考えさせる手法。
「酉陽雑俎」でもその対抗作品として「長須國」[→]を収録している。
   [→「酉陽雑俎」の面白さ"ライバル李公佐"(2017.1.9)]

なんということなしに、「ガリバー旅行記」を引くが、それは、アイルランドの風刺作家ジョナサン・スウィフトの作品との知識があるから。
一寸前までは、これは子供向けの物語。だからこそ、誰でもが"小人国でのガリバー"を知っている訳だ。

「酉陽雑俎」は、子供向けではないから、ほどんど知られていないが、シンデレラの原典と思しき話を収録していることもあって、多少の興味を引かせる本ではある。しかし、一般にはそのような扱いをされることはなく、もっぱら、唐代の荒唐無稽な怪異記事を集録した書物とされているのである。
その手の書物は多々存在しているのに、そこからわざわざ二次的収録集を、膨大な労力をかけて作る意味がどこにあるのか小生には理解できぬが、そう考える人は滅多にいないのであろう。
従って、こうした評価は今後も変わることはなかろう。

「今昔物語集」は仏教説話集とされているが、同じようなことが言えよう。
「酉陽雑俎」=怪異記事集録書と同じで、単調で代わり映えがしない往生譚や法華経霊験譚がズラズラならぶから、「今昔物語集」=仏教説話集とされてしまうのである。どう考えても仏教説話と呼べそうにないものが収録されているにもかかわらず。

冒頭に、釈迦の短い逸話が並ぶからそう映るのも確かだが、ココも仏教伝を意図したものだろう。そんな書が全くなかった時代であり、斬新かつ画期的な企画と見るべきと思う。
「酉陽雑俎」も似たところがあり、短い唐朝逸話を引用することで、王朝史に換えている。命を奪われぬように、注意しながらの執筆ということ。当たり前だが、歴史など勝手に語れる訳がないのだ。
換言すれば、ご立派な"公認"史書を風刺しているようなもの。

そのように考えると、「今昔物語集」は「酉陽雑俎」の上を行く企画。
危ないところは、欠文、臥せ文字にしてあるからだ。
従って、読み手はその部分を想像させられることになり、そこらを小馬鹿にしていることに気付かされる仕掛け。呆れかえった企画だが、なかなかの知恵者と言えよう。

しかも、ご丁寧に、いい加減な書物ですゾとも映る小細工が随所に。
例えば、天竺部に、題名も内容も震旦となっている話を入れ込んだりもする。通常は震旦と見なされている話だが、実はコレ天竺話と主張しているようなもので、読むと、その理由がわかる人にはわかるようにしてある。たいしたもの。
当時としては、読者の誰でもがわかる天皇代も、恣意的に間違うことで、そこから一種の諷刺感覚が生まれるような工夫も。

なかでも、各譚末尾の記載は秀逸。
このような書を読む層からすれば、余りに下らないと感じさせる、内容繰り返し的要約が結構多い。何の意味もないから、現代用語ではウザイとなる。ワザとそのように書いたのだろう。従って、場合によっては、その馬鹿々々しさで、つい笑いを誘われてしまうこともあろう。
さらに、ご丁寧にも、的外れなご教訓とか、とんでもないご指摘もあったりして。
まさに、知的遊びを楽しむ風情紛々。

 (C) 2020 RandDManagement.com    →HOME