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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2017.1.9 ■■■

ライバル李公佐

小説家、李公佐[770-850年]の本貫地は甘粛で、進士に及第したとされるが、はっきりしたことはわからない。ともあれ、ノマド的体質の人だったようで、任官しても、各地をさすらう体質は消えなかったようである。
執筆のタネはそこらから来ていそう。
作品としては、《南柯太守傳》、《謝小娥傳》、《廬江馮媼傳》、《李湯》。(さらに、白行簡と婦人の品格について議論して生まれたのが《李娃伝》であると自分で書いている。)

成式とは対極的で、官僚実務上はチャランポランな人だったのではないか。
しかし、話が面白いから、裏で権力を持つ隠居連中や宦官には可愛がられたであろう。そのような小説は歴史の藻屑として消え去るのが普通だが、残存したのは、座興のお愉しみレベルから抜け出た感じがあるからだろう。と言っても、やんわりとした諷刺や揶揄的内容が含まれているにすぎぬが。
ともあれ、天性的な小説モチーフ創造者だったのは間違いなかろう。

そんな風に思ってしまうのは、それを感じさせる逸話を収載しているからだ。公佐の第六感的シーンが収載されているのである。
   「くびき」
読み方によっては、この成式作品、なかなかの出来栄えと言えよう。
李公佐その人を題材にして、シッダルーダ王子が牛の苦役を見たシーンをかぶせ、それこそ仏教"法綸[輪]"説話風に仕上げていると言えなくもないからだ。中華的パロディ版ともいえそう。

成式は、大自然観について記載するにあたっても、《李湯》[@「太平広記」巻467]を相当に意識していそう。

この書のタイトルは、「山海経」を捻った「岳経」("岳→山 →海)でもある。つまり、《山海經》《列子》《淮南子》といった道教形式の書き方を根っから馬鹿にした小説なのである。
日月星辰や山川河泊の扱いが違うということは、宇宙観が違うということでもあり、成式の意識と似たところがありそう。
その辺りの成式のセンスは、「ゴチャゴチャの河伯」[→]でも見て取れよう。

さらに、考えさせられるのが、"大衍暦"を作った僧侶僧一行の扱い。
懇意だったとはいえ、余りにちょくちょく登場している。そのポイントは、「一行禪師伝」【一行七曜】[→]。ナンノコッチャ的記載の部分だが、暦の本質とは宇宙の規則的な動きを描いたものと認識があるのは明らかでは。

《南柯太守傳》についても、かなり意識しているのは間違いない。「韋斌傳」[→]で、その辺りを書いておいたが。
現代的には一種の「ガリバー旅行記」であり、現世と幻想世界を対比させ、国家という概念を考えさせる手法といえよう。成式の対抗作品としては、「長須國」[→]があげられよう。

《謝小娥傳》については、成式は余り興味を覚えなかったようだが、南斉代 錢唐[@浙江杭州]の才色兼備の名妓 蘇小小は取り上げている。
名妓を詩の題材にするのは、当時の流行でもあるから、お遊びにも映るが、成式のサロンにはそれなりの哲学がありそう。・・・

道政坊寶應寺。韓幹,藍田人,少時常為貰酒家送酒。
王右丞兄弟未遇,毎一貰酒漫遊。
幹常債於王家。
戲畫地為人馬,右丞精思丹青,奇其意趣,乃與錢二萬,令學畫十余年。
今寺中釋梵天女,悉齊公妓小小等寫真也。
寺有韓幹畫下生幀彌勒,衣紫袈裟,右邊仰面菩薩及二獅子,猶入神。

有王家舊鐵石及齊公所喪一子,漆之如羅羅,毎盆供日,出之寺中。
彌勒殿,齊公寢堂也。東廊北面,楊岫之畫鬼神。齊公嫌其筆跡不工,故止一堵。

辭。僧房連句:
  古畫思匡嶺,上方疑傅巖。
  蝶閑移忍草,高杉。
(柯古)
  香字消芝印,金經發函。
  井通松底脈,書拆洞中緘。
(善繼)
哭小小寫真連句:
  如生小小真,猶自未棲塵。
(夢復)
  鄭符袂將離壁,斜柯欲近人。(柯古)
  昔時知出衆,情寵占陳。(善繼)
  不遣遊張巷,豈教窺宋鄰。(夢復)
  樓吹笛裂,弘閣賞歌新。(柯古)
  怯折腰歩,蛾驚半額顰。(善繼)
  圖形誰有術,買笑辭貧。(柯古)
  復隴迷村徑,重泉隔漢津。(夢復)
  同心知作羽,比目定為鱗。(善繼)
  殘月巫山夕,余霞洛浦晨。(柯古)
  [續集卷五 寺塔記上]

家妓にしろ、公妓にしろ、娯楽担当の奴婢階級発祥であり、それが妾的地位に少し近づいたというのが唐代のいつわらざる状況だろう。儒教に対立的な道教が政治的に力を持つようになると、この辺りがあからさまに語られるようになるということでもあろう。しかも、非貴族出身者が登用されれば、両者の間の恋愛感情が社会的地位確保と絡んでくるので、そこらが悩ましい問題である。
成式の身分ではそういった問題はないが、そのこと自体はよくご存知だったようだ。だが、おそらく悲恋話にはそれほどの関心はなかったと思われる。それは、両者の間に必ずしも知的な交流があったは限らない訳で、奴婢扱いから抜け出しているとは限らないからである。
成式の考える名妓とは、知的エリートそのもの。たとえ、悲恋に遭遇しても、それを糧に文芸作品に昇華させる力を持っている人物であろう。成式のサロンには、そのような名妓がメンバーとして加わっていた可能性もあろう。

(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.

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