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■■■ 今昔物語集の由来 [2019.7.4] ■■■
[4] 留学僧
本邦三仏聖の3譚[→]と渡来高僧2譚[→]の間には留学僧3譚が入っている。もちろん、各譚はバラバラな話で互いに繋がりがある訳ではないし、隠された糸を解けという風情の話でもない。しかしながら、それらを俯瞰的に眺めると、本邦仏教史はこう見るべしという、「今昔物語」編者の思想がうっすらと見えてくるように編纂されている。
と言うか、サロンでの会話のタネそのもの。笑いながら、歴史観を披歴できる能力がないとさっぱり面白くないのである。
 【本朝仏法部】巻十一 本朝 付仏法(仏教渡来〜流布史)
  [巻十一#_4]道照和尚亙唐伝法相還来語
  [巻十一#_5]道慈亙唐伝三論帰来神叡在朝試語
  [巻十一#_6]玄ム僧正亙唐伝法相語

この3僧のプロフィールを簡単に示すとこんな具合。・・・

【道照】
 629年誕生 @河内丹比
 n.a.        法興寺
(現在の飛鳥寺)居住
 653年入唐 師は玄奘三蔵

 660年帰国 
飛鳥法興寺(平城京移転で元興寺に)の東南隅に禅院創建
 700年入滅 遺言により火葬
(本邦初記録)
  →道昭法師座像 (C)元興寺・法輪館
行基[668-749年]は弟子に当たる。

【道慈】
 n.a. 誕生 @大和添上
          師は法隆寺 智蔵
(三論)&竜門寺 義淵(法相)
 702年入唐 西明寺 師は元康
(三論)&善無畏(密教)
 718年帰国 大安寺

 744年入滅

  →道慈律師像@14〜15世紀 奈良国立博物館収蔵

【玄ム】
 n.a. 誕生 @大和
          師は義淵
 717年入唐 師は智周
(法相)  他の遣唐使随行者:吉備真備、阿倍仲麻呂
          玄宗皇帝より紫衣下賜
 735年帰国 興福寺

 737年内裏 内道場僧
(聖武天皇母藤原宮子の病気治癒祈祷)
 746年入滅 @筑紫

  →興福寺南円堂座像 public domain

ただ、これをいくら眺めても、なにも浮かんではこない。ところが、宗派的見地で留学僧を眺めると、なんとなく感じさせられるものがある。(尚、上記には、吉備真備と僧正玄ムを排除すべく藤原広嗣が立ち上がった反乱は恣意的に未記載。)
《法相宗》
 [第一伝元興寺]道昭(653年入唐)
 
[第二伝元興寺]智通、智達(新羅船で658年入唐)
 
[第三伝興福寺]新羅僧智鳳、智鸞、智雄(703年入唐)
 
[第四伝興福寺]玄ム(717年入唐)
 
善珠[723-797年]@興福寺…玄ム弟子 秋篠寺創建
 
行賀[729-803年]@興福寺(752年入唐)
 
唐僧神叡/芳野僧都[n.a.-737年]@元興寺…師は義淵
《三論宗》
 高句麗僧慧灌(625年渡来)…吉蔵[549-623年]の弟子
 
呉僧福亮
 
智蔵(入唐)…福亮の子
 
道慈(718年入唐)

前置きが長いが、致し方ない。留学僧譚の面白いのは、その僧侶の素晴らしさを示すとか、なんらかの仏教説話の態をなしているとはとても思えない内容。玄ム譚は圧巻。こともあろうに、藤原広嗣の怨霊に殺されるという話が中心だからだ。
さらには、入唐した道慈が、国内一途の神叡に論争で太刀打ちできないという話だったりする訳で。

ただ、ある意味、共感を覚えないでもない書き方である。興福寺は一大学門寺だったからだ。そこには、玄ム達が大陸から持ち込んだ膨大な仏典が所蔵されており、智の殿堂でもあった。「今昔物語」の編著者は、おそらく南都焼討@1181年を予想していたのではなかろうか。

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