→INDEX ■■■ 今昔物語集の由来 [2019.8.25] ■■■ [56] 源融 【本朝世俗部】巻二十七本朝 付霊鬼(変化/怪異譚) ●[巻二十七#_2]川原院融左大臣霊宇陀院見給語 川原院/河原院は左大臣源融の邸宅。 庭は、陸奥 塩竈の景色を模しており 池の水は海から汲上げて運んで来ており、 素晴らしい風情。 逝去後、 子孫が献上したので、 宇多院の住居となっていた。 醍醐天皇は院の皇子でもあり 行幸も度々。 まことに目出度い場所だった。 ある日の夜半のこと。 院は、 寝ている部屋の西の対から 塗籠の戸を開けて 衣ずれの音をさせながらやって来る 人の気配を感じた。 そちらの方を見やると、 衣冠束帯できちんとした装束の人が 二間ばかりのところに かしこまって控えていたのである。 院:「誰であるか?」 臣:「当家の翁でございます。」 院:「融の大臣か?」 臣:「左様でございます。」 院:「何の御用か?」 臣:「私の家でございますので 此処に住んでおりますが、 院がお出ましになりますので、 お畏れ多く、窮屈な思いをしております。 如何いたしましょうか?」 院:「さても、おかしなことを申す。 そちの子孫が献上したので住んでおるのだ。 たとえ、モノの霊と言えども、 道理をわきまえず、 何故に、左様なもの言いを申すか?」 一喝すると、融の霊は消えて見えなくなった。 以後、現れることもない。 豪奢を極めた大邸宅"東六条川原院"は鴨川近辺にあり、相続した子息 昇が、法皇を初めて称した宇田上皇に献上し、仙洞御所となった。 その後、出家していた、融の三男 康(法名:仁康)が寺を創基したようだが、祇陀林寺創建時@1000年に本尊を移転したようだ。その後は無人となり、火災も発生したりして荒廃してしまったらしい。 (現存する渉成園は、場所的にはこの敷地の一部に該当するが、徳川家光から東本願寺への寄進地であり、石川丈山造営の書院式回遊庭園。) 源融は、勿論、この他にも家を所有していた。 宇治の山荘は、「源氏物語」宇治十帖の舞台であるが、同様に宇多院所有となり、源重信に渡り、摂政藤原道長の「宇治殿」に。その子息 頼通が1052年に寺院を創建し(明尊が開山)、平等院となったと伝わる。 一方、源融が隠棲したとされる嵯峨野の山荘 棲霞観だが、没後、寺となり、「然[938-1016年]、により嵯峨釈迦堂となり、その後、清凉寺に。伝墓地が現存している。 家談義をしたい訳ではなく、霊が家に居付いている感覚がありそうで、それがどうしても気になるなら、古い家は寺にするのが一番ということになる。 それを視たかったから。 ただ、川原院=仙洞御所は、それだけではない。 源融が、住んでいる上皇に対して複雑な気持ちを持っていることを示しているからだ。 「大鏡」によれば、源融は、皇位継承をめぐって、陽成天皇を皇位に付けようとする若き藤原基経と争ったとされる。臣籍降下を理由にして外され、皇位継承の望みはかなわずで、藤原基経が摂政として後見役を果たすことになる。 その後、藤原基経は臣籍降下していた宇多天皇を、親王復活させ、即時立太子・践祚を進めるのである。この場合は、関白として後見役を果たすことになる。 源融の事跡がほとんど残っていないのは、この辺りの角逐で、すべて消されたと考えるのが自然であろう。編年的に見ると、以下の如し。 (尚、嵯峨源氏の祖とされている。)[→平維茂] 809年 嵯峨天皇[桓武天皇第2皇子]践祚 822年 源融誕生[嵯峨天皇第8皇子 母:大原全子] 823年 嵯峨天皇攘夷 淳和天皇践祚 827年 文徳天皇誕生[仁明天皇第1皇子 母]左大臣藤原冬嗣の娘 順子] 830年 光孝天皇誕生[仁明天皇第3皇子 母]左大臣藤原総継の娘 沢子] 833年 淳和天皇攘夷 仁明天皇践祚 838年 源融臣籍降下…嵯峨天皇皇子臣籍降下源氏17人のうちの第十二] 840年 淳和天皇崩御 842年 文徳天皇立太子 850年 仁明天皇崩御 文徳天皇践祚 清和天皇誕生[文徳天皇第4皇子 母:太政大臣藤原良房の娘 明子] 清和天皇立太子 856年 源融参議…公卿に嵯峨源氏4人 858年 文徳天皇崩御 清和天皇践祚 ⇒ 藤原良房摂政就任〜872年 864年 源融中納言 867年 宇多天皇誕生[光孝天皇第7皇子 母:仲野親王(桓武天皇皇子)の娘 班子] 868年 陽成天皇誕生[清和天皇第1皇子 母:藤原長良の娘 高子] 陽成天皇立太子 872年 源融左大臣 876年 清和天皇譲位 陽成天皇践祚 ⇒ 藤原基経摂政就任〜884 源融上表を出し私籠 880年 清和天皇崩御 884年 陽成天皇退位 光孝天皇践祚 宇多天皇臣籍降下 885年 醍醐天皇誕生[宇多天皇第1皇子 母:内大臣藤原高藤の娘 胤子] 887年 光孝天皇崩御 宇多天皇親王復活・立太子/践祚 ⇒ 藤原基経関白就任〜891 891年 源融太政官(首班) 895年 源融逝去 897年 宇多天皇譲位 醍醐天皇立太子/践祚 923年 朱雀天皇誕生[醍醐天皇第11皇子 母:藤原基経の娘 穏子] 926年 朱雀天皇立太子 930年 醍醐天皇崩御 931年 宇多天皇崩御 朱雀天皇践祚 949年 陽成天皇崩御 その川原院だが、荒れ果てて無人の家になると、鬼が出るような場所と化す。 思うに、院が源融への追善供養をしないので、霊が現世に戻ってきてしまったと言えないでもなく、宇田院も死んでしまうと仏道修行の場でもなくなれば、ついに鬼が出現する場所と化すことになるという見方がベースにあるのだと思う。 すでに、そのような情緒感をベースとする歌は取り上げたが、補足しておこう。[→和歌集]・・・ 【本朝世俗部】巻二十四本朝 付世俗(芸能譚 術譚) ●[巻二十四#46]於河原院歌読共来読和歌語 紀貫之1首 河原院に宇多院住まで給けるに、失させ給ひければ、住む人も無くて、院の内荒たりける・・・ 君まさで 煙絶えにし 塩釜の うらさびしくも 見え渡るかな[古今#852} 僧 安法君(恵慶法師)1首 其後、此の院を寺に成してけり。 然て安法君と云ふ僧ぞ住ける。其の僧、冬の夜、月の極く明かりけるに、・・・ あまの原 そらさへさえや 渡るらん 氷と見ゆる 冬の夜の月[拾遺#242} 古曾部入道能因1首 西の台の西面に、昔の松の大なる有けり。其の間に、歌読共、安法君の房に来て としふれば かはらに松は おひにけり 子の日しつべき ねやのうへかな 大江義時1首 さと人の くむだに今は なかるべし いたゐのしみづ みぐさゐにけり 源道済1首 行く末の しるしばかりに 残るべき 松さへいたく 老いにけるかな[後十五番歌合#5] 其の後、此の院、弥よ荒れ増て・・・ そうそう、具体的な鬼譚も収載されている。源融の亡霊というようなレベルではなく、恐ろしき吸血鬼。・・・ ●[巻二十七#17]東人宿川原院被取吸妻語 東国から官爵を買い求めようと状況した男、 宿に窮し、たまたま、無人の川原院に数日逗留することに。 ある夕暮れのこと。 妻戸が突然開いて内側から手が伸びてきた。 そして、男の妻を引き込んでしまった。 急いで駆け寄ったが、妻戸は開かない。 脇の格子も遣戸も内から鍵が掛かっている。 男は近所の人の助けを呼び、 調べたがどうにもならず、 𨨞で戸を叩き壊し 灯火を持って内側に入ってみた。 妻は、疵もなく、棹に掛けられて死んでいた。 人々、これは「鬼の吸殺」と語らったという。 男はただ逃げるしかなかった。 [ご注意]邦文はパブリック・ドメイン(著作権喪失)の《芳賀矢一[纂訂]:「攷証今昔物語集」冨山房 1913年》から引用するようにしていますが、必ずしもママではなく、勝手に改変している箇所があります。 (C) 2019 RandDManagement.com →HOME |