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■■■ 今昔物語集の由来 [2019.9.13] ■■■
[75] 能登沖鬼ノ寝屋島
能登半島近辺の海の地理的状況を示唆する話が収載されている。

海図的にはこんな具合。・・・
 ご存知のように加賀沖には島は全く無い。
 能登一宮の気多大社の地、羽咋沖にも島はない。
 半島北の輪島/鳳至湾には港。
  その側に光ノ島浦[輪島光浦漁港]がある。
  湾の北方沖に2つの離島(有人)
  《七ツ島》@約20km…目視可能
   北…大島 狩又島 竜島
   南…荒三子島 烏帽子島 赤島 御厨島
   好漁場であり、現在も海女漁が行われている。
  《舳倉島》@約50km…距離と高さから考え不可視と推定
   海女漁が盛んなようだが、もともとは夏季移住地。
  他に、途中に、漁場である"嫁ぐり礁"がある。
   人類史以前、これらすべては半島と続いていた地。
 要するに、半島西に島はなく、北方にこの2島のみ。
 東は佐渡まで島影無し。(さらに東に小さな島)[→粟島]

先に説明しておくと、「今昔物語集」で登場する"鬼ノ寝屋島"は七ツ島の大島で、"猫の島"は舳倉島と比定してよさそう。収載されている譚が、縁起とはされていないものの、七ツ島と呼ばれる由縁となっている。

本土の宮の名称が2ツ登場する。
一つは加賀の熊田の宮@手取川河口 能美だが、七ツ島("猫の島")の分社とされている。手取川河口の港と七ツ島の大島の間に不定期航路が存在していたことを示唆していそう。
猫の島と呼ばれる理由は記載されていないが、鼠や小獣が全く棲息していないかったからかも。

もう一つは、気多大宮。古くから、北陸の中心的社だったようで、羽咋に創建されたのはご承知の通りだが、多少、注意を要する。国守から見た気多大社とはもちろん羽咋の大社だが、海人からすれば、離島が直接目視できる地@輪島崎/鳳至にある本宮を指していそうだから。もちろん同名の別宮ということになろうが。

この辺りを、「今昔物語集」編纂者がとりあげたかったのは、国際的海路としては、ココの存在を忘れるべきでなかろうと考えたからだと思う。
公言はできないが、この気多大社は、玄界灘における宗像大社に匹敵すると言いたかったのだろう。沖津宮・中津宮・邊津宮に当たるのが、舳倉島"猫の島"・七ツ島"鬼ノ寝屋島"・気多大宮"気多大社輪島崎本宮"と考えよということ。
ただ現実的な海路としては、東への主海流と岸側の反流を考えると、佐渡方向に流されかねぬ輪島ではなく、半島西の加賀の熊田@手取川河口の能美辺りの港になるのだろう。
この地に海人の蛇信仰的残渣の伝承が残っているのは、そこらに起因すると見たのだろう。

さて、お話の方だが、宿報譚に入れられている。筋を追ってみよう。・・・
  【本朝世俗部】巻二十六本朝 付宿報
  [巻二十六#_9]加賀国諍蛇蜈島行人助蛇住島語
○加賀国の下賎の者7人は、何時も仲間で海釣り。
  それで生計を立てていた。
 ある日、一艘の船で海に出た。
 皆、弓箭・兵杖を装備。
 沖に漕ぎ出たところ、突然、強風が吹き荒れ船が流された。
 どうにもならないので、なすがまま。船は沖へ沖へと。
 皆、死を覚悟したが、大きな離れ島が見えてきた。
 なんとか上陸したいものと思っていると、
 引き寄せられるかの如くに到着。皆、助かったと大喜び。
 早速、船を曳き据え、様子を見ると、水が流れている地。
 すると、年の頃20余の美しい男が出て来た。
 人が住んでいたので、皆、嬉しくなった。br> 男はやって来て
  「これは、あなた方をお迎えするため、私がしたこと。
   風も吹かせたのですぞ。」と言う。
 これは只者ではないと、海人理解。
 すると、男の命令で大勢が長櫃が持って来た。中は御馳走。
  鱈腹食べたが、残ってしまい、明日の食事にするように、と言われ、
   運んで来た人々も去ってしまった。
 そこで、迎えた理由を、近くによって来た男から聞かされることに。
  「さらに沖に、別の島があり、
   その島の主は、私を殺して、この島を乗っ取ろうと。
   しばしば、攻めてくるのですが
   備えることで、なんとか撃退して来ました。
   それが、又、明日攻めて来るのですが
   これは、命を賭けた決戦になりますので
   皆様の助けをお借りしようと思い、御迎えした次第。」と。
 海人達は、
  「軍勢の規模はわからないのでなんとも言えませんが
   力及ばずとも、参上した以上、命を賭す覚悟ができています。
   あなた様の指示のもと、応戦致しましょう。」と。
 男は喜び、戦い方を説明。
  「敵は人の姿そしておりません。
   実は、私にしても、人ではないのです。明日わかりますが。
   敵が来たら、私は、島の上方から攻め降りります。
    今迄は、この戦いで上陸させず撃退してきました。
    今回は、皆様がおりますので、上陸させます。
     敵は力を出せると、喜んで乗ってくるでしょう。
     皆さんは、そこでしばらく見ていて下さい。
   そのうち、私が耐えられなくなりましたら、合図します。
   そこで、矢の一斉攻撃を仕掛けて下さいまし。
    くれぐれも油断などなされますな。
    準備は巳の刻、火蓋が切り落とされるのは午の刻頃です。
   十分に食べ、この巌の上に立っていてください。
    敵はこの下から上陸してきますから。」と。
 男は、7人に細かく教え込んで、島の奥へと戻っていった。
 全員で、島のなかへ入って、木を伐採し、小屋をつくり
  戦いの準備に精をだすと、時は巳の刻。
 風が吹き、海は荒れ始め、海面が光り、大きな2つの火が出現。
 山々の草木もザワザワし、そこから2つの火が出現。
 そして、沖から島に近寄って来る者がおり、
  よくみると、体長十丈もの蜈
/百足が泳いでいるのである。
  その背中は光り、脇は赤々。
 一方、島の上の方には、長さは同じ位で、一抱えの太さの大蛇。
  上から下りてきて、両者は向かい合ったが
  蜈は上陸してきて、ついには壮絶な取っ組み合い。
   2刻ほど続き、両者血だらけ。
   足が多い蜈が優勢になっていったところで、蛇が7名に合図。
   教えられた通り、皆集まって、一斉に矢を射込んだ。
   弓も刺し、太刀で手を切ると、蜈は倒れ伏してしまった。
  それを確認した大蛇は山へと帰っていった。
 しばらくしてからだが、
  島の主が片足を引き摺って血を流しながら苦し気に出て来た。
  大いに喜んでおり、食べ物を持って来たのである。
  蜈の死体は切り刻んで薪に懸け焼却し、灰と骨は遠くに捨てた。
 島の主は、嬉しさを吐露した上で、
  「島には田畠に向く土地が沢山あり、果木も無数。
    この島に移住されたら。」と。
  「妻子を迎えに行ったらよい。」とも。
 帰る際の風は吹かすし、
 この地へ渡って来るなら、
  加賀国 熊田の宮が、この島の分社ですので
  お祀りすればよいのですと詳しく教えてくれたのである。
 と言うことで、必要な食糧を積んで出航。
  風が吹き始め、たちまち本土に渡り終えてしまった。
 7人は、家に戻り、移住すると。一緒に行きそうな者も誘った。
  但し、秘密裡に渡ろうと、7艘に作物の種等々積載し、準備万端。
  そして、熊田の宮に参詣して次第を奏上し出航。
  風が吹き出し、すべての船が無事に到着。
 その後、その者達は定住し、田畠を耕し、子孫も増え、大いに繁栄。
 この島だが、猫の島と言われている。
 島の人は、一年に一回、本土に渡り、
  加賀国の熊田の宮でご祭礼を行うと言われている。
 しかし、加賀の人がその様子を見ることはできない。
  夜中などに渡って来て挙行後すぐに帰ってしまうかららしい。
  ただ、その痕跡が残るので、来訪がわかるという。
  それによると、ご祭礼は未だに続いていると。
○この島は、能登の大宮からも、
  遠くではあるもののよく見え、
  晴天だと、青みを帯びており、西側が高い形。
○能登に、常光という船頭がおり、風に吹き流され、その島に漂着。
 島の者達が出て来たが、上陸させてくれない。
 岸に船を繋がせるだけで、食料などをくれるだけ。
 7〜8日後、島からの風が出てきて、走り帰ることができた。
 その船頭によると、
  「一見だが、島には人家が多そう。
   重なるように建っており、
   京のような小路がある。
   人が頻繁に行き交っていた。」と。
○島の内情を見せまいとしてたのだろうか。
 唐から来る人は、この島に立ち寄り、食料を仕入れた上、
 鮑や魚を獲り、そこから敦賀に渡る。
 この場合も、島の人々は唐人に島の存在を語るなと口止め。
 7人の者とは前世の縁で住むことになったのだろう。
  そこは楽園と言われている。


もう一つ、能登沖の島の話が収載されている。・・・
  【本朝世俗部】巻三十一本朝 付雑事(奇異/怪異譚 拾遺)
  [巻三十一#21]能登国鬼寝屋島語
 能登沖に寝屋島がある。
 周辺には鮑がゴロゴロ。
 能登の陸側には、光ノ島浦がある。
  その浦の住人である海人は、この鬼の寝屋島に渡って鮑漁を行う。
  そして、税として納めるのである。
 光ノ浦から、鬼の寝屋島へは航続一日一夜の距離。
 さらに、沖に行くと猫の島がある。
  鬼の寝屋島から猫の島へは追風で走って一日一夜を要する。
  その距離は高麗国に渡るくらい遠いかも知れない。
  滅多に人は行かないのである。
○話はかわるが、
 光ノ浦の海人は鬼の寝屋島に渡って帰って来ると、
  一人で一万の鮑を国司に税として奉ったという。
  一度に40〜50人だからとてつもない量だ。
 藤原通宗朝臣が能登守任期完了年にも、
  光ノ浦の海人が納入した。
  ところが、さらに強要。
 そこで海人達は、越後国に逃げ去ってしまった。
 光の浦には人がいなくなり、
  鬼の寝屋島の漁も途絶えてしまったのである。

ご教訓はこうなっている。
 「于今も、国の司、其の鮑取らざなれば、極て益無き事也」とぞ、
  国の者共も彼の通宗の朝臣を謗ける。

一言で言えば、受領の強欲さを示す譚となるが、そんな姿勢は格段に珍しいことではなかろう。
この、藤原通宗だが、1072年に能登守として、気多大社で歌合を行っている。
 寝覚めする 有明潟の さひしきに
  佐保の川原の 千鳥鳴くなり
 [気多宮歌合#10]
う〜む。
「後拾遺集」[#122]には通宗の歌が収載されている。
  周防にまかりくだらんとしけるに、家の花をしむ心、人々よみ侍りけるに、よめる
 おもひおく ことなからまし 庭櫻
  ちりての後の 船出なりせば

う〜む。
これではお付き合いにお金がかかりそう。一族だからといって才に恵まれるとは限らない訳で。社での歌合にお金をかけることでは先頭を切ったお方のようだが、競争は熾烈。団栗のなかで、鮑で抜け出そうとしたのだろう。
[→藤原氏列伝]
○忠平[880-949年]

○実頼[900-970年] 師輔[909-960年]
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┼┼○斉敏[928-973年]
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┼┼○高遠
┼┼┼○懐平/懐遠[953-1017年]
┼┼┼│○実資[957-1046年]
┌──┘
○経通[982-1051年]
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○経平[1014-1091年]
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通宗[1040-1084年] 通俊[1047-1099年…「後拾遺和歌集」撰進者]
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○隆源/若狭阿闍梨

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