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■■■ 今昔物語集の由来 [2019.10.17] ■■■
[109] 紫式部の父弟
紫式部は学者の家で育った。
《藤原良門系》

為時[949-1029年]
├┬┬┐
紫式部[973年-n.a.]
惟規[974-1011年]
┼┼惟通
┼┼┼定暹
惟規が、兄か弟かは実は不明だが、年子の弟と見るのが妥当ではなかろうか。ご存知、有名な話があるからだ。・・・
 この式部丞[=弟 惟規]といふ人の、
 童にて書読み侍りし時、聞き習ひつつ、
 かの人は遅う読み取り、忘るるところをも、
 あやしきまでぞさとく侍りしかば、
 書に心入れたる親
[=為時]は、
  「口惜しう。 男子にて持たらぬこそ幸ひなかりけれ。」
 とぞ、常に嘆かれ侍りし。
[紫式部日記]

姉弟は結構頻繁に交流があったようで、どういう関係だったのか、気になるところである。
と言うのは、惟規の一句を記載[→和歌集]した時にその背景説明を読んだからでもある。
  【本朝世俗部】巻二十四本朝 付世俗(芸能譚 術譚)
  [巻二十四#57]藤原惟規読和歌被免語

余り細かなことが書かれていないので、ふ〜ん、で通り過ぎがちだが、「今昔物語集」編纂者が主菜する仏教サロンではこの話を切欠に雑談花盛りとなったことだろう。

背景と言うほどのことはないが、大斎院(村上天皇第10皇女 選子内親王)とその女房達のサロンは当時は大変に有名。当然ながら紫式部達のライバル。
そこの女房[源為理女]が藤原惟規の恋人だったらしい。女房にしてみれば、鬱陶しい相手ではないかと思うが、それはそれ男女の仲だから、それなりに上手くいっていたようなのだ。
女房も手紙一本気を抜けない訳で、その緊張感も楽しかったのかも。アノ手紙姉に見せてご覧という会話もありそうだし。
よりにもよって、そんな厄介な場所に通うのだから、案の定というか、斎院の侍共に見とがめられることになる。当然、「あの男は誰なの?」となるから、なかなかに面白い。

さて、父親の藤原為時だが、当然ながら、漢文の博士である。儒者ではないかと思うが、調べていない。花山天皇期には重用されたのである。公文書は漢文であるから、かなり羽振りがよかっただろう。ところが、一条天皇期になると無官。皇位継承のゴタゴタの煽りであろう。
そこで起死回生の漢詩での一手を繰り出す。ここらはすでに取り上げた。[→漢詩集]  【本朝世俗部】巻二十四本朝 付世俗(芸能譚 術譚)
  [巻二十四#30]藤原為時作詩任越前守語
除目内定者を外させ、越後守を射とめる。道長の腹心である源国盛が納得する訳もないが。

そして、為時は赴任していく。
惟規も、都での勤務が完了すると、その地に出向くのだが、病で為時邸で亡くなることになる。
そのシ−ンが描かれているが、およそ仏教説話集には似つかわしくない。しかし、人々の琴線に触れる話なのである。
  【本朝世俗部】巻三十一本朝 付雑事(奇異/怪異譚 拾遺)
  [巻三十一#28]藤原惟規於越中国死語
 博士である藤原為善が越中守に成り赴任した時、
 子の惟規は当職の蔵人で一緒には下れなかった。
 いざ、下ることになったら
 道中で重篤な病にかかってしまった。
 留まることもできにので、越後に下って行った。
 父は来訪と聞き、喜んで待っていたのだが、
 奇異な状態で、歎き騒ぐことになってしまった。
 八方手を尽くしたが 治癒の見込みなし。
 そこで、
  「今、此の世の事を考えても、益は無い。
   後の世の事を思ふのがよかろう。」ということで、
 智慧ある尊敬に値する僧を枕元に呼び、
 念仏を勧めさせた。
 僧が惟規の耳元で、
  「地獄の苦しみはもうそこまで来ている。
   それは筆舌尽くし難きもの。
   先ずは、先が定らぬ中有に。
   鳥獣皆無の遥かなる広野で、只独りになる。
   心細く、此の世の恋しさなどで、
   堪え難き状況になる訳で、
   それを考えて下さい。」と。
 それを聞いた惟規は、どうやら息をしながら、
  「その中有の旅の空には、
   嵐に散る紅葉、風に靡く尾花、等の元で、
   松虫などの音は聞えないのでしょうか?」と言う。
 僧、悪態なりと、声を荒げ、
  「何を考えて、そんなことを尋ねるのか?」と。
 それに惟規、答える。
  「そうだとすれば、
   その情景を見て(心安らかに)なりましょう。」
 息を継ぎ継ぎ言ったところ
 僧は「狂気!」と言って逃げ去ってしまった。
 父は、鼓動がある限りは、と付き添っていると、
 惟規が、二つの手を挙げて近付けてくる。
 どういうことかわからず見ていたが、
 傍に控えていた人が、
  「もしかしたら"物を書きたい。"と思っておられるのでは。」
 と言うので、
 筆を濡らし紙を渡してみると、書き始めた。

    みやこにも わびしき人の あまたあれば
     なほこのたびは いかむとぞおも(ふ)

    (都にも 恋しき人の おほかれは
     なほこの旅[度]は 行かむとぞ思ふ [「後拾遺集」巻十三恋三#764])
 最後の文字を書く寸前、息が途絶えてしまったので、
 父は、「"ふ"と書きたかったのだろう。」と言い、
 文字を書き副へ、これを形見にしたのである。
 そばに置いて常に見では、泣いていたので、
 涙で湿ってしまい、ついにはは破れて滅失。
 父は、上京後にこのことを語ったのだが、
 聞いた人は大いに哀れがったという。


さて、末尾のご教訓だが、惟規は三宝に全く関心が無いのだから、当然ながら、罪深かしとなる。
愛すべき御仁でもあったから、悲しいことですナ、以上ではない。

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