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■■■ 今昔物語集の由来 [2019.10.20] ■■■
[112] 千観内供
浄土教から浄土宗へ発展して行く流れのなかで、明らかに、鍵を握る僧の一人と言えそうな千観[918-984年]の話をとりあげておこう。
往生譚というより、仏教史の見方をそれとなく展開しているようなので、その観点で眺めてみよう。
  【本朝仏法部】巻十五本朝 付仏法(僧侶俗人の往生譚)
  [巻十五#16]比叡山千観内供往生語

 比叡の山の□(園城寺/三井寺)
 千観内供
(天皇に奉仕する内供奉十禅師の一人)と云ふ人有けり。
 
(摂津出身で)俗姓は橘の氏人也。
 
(相模守橘敏貞の子で、中納言 橘公頼の孫。)
 其の母、初に子無くして、窃に心を至して、
 
(清水寺 千手)観音に子を儲けむ事を祈申しけるに、
 母の夢に、一茎の蓮花を得たりと見て後、
 幾の程を経ずして懐妊して、千観
(丸)を産たりける也。
 
(千手観音に肖って命名されたのである。)
 其の後、其の児、漸く長大して、
 比叡の山に登て、
(12才で)出家して、名を千観と云ふ。
 
(園城寺 円珍より10代目の運昭[885年-n.a.]に師事し)
 顕密の法文を兼学ぶに、
 心深く、智り広くして、二道に於て悟り得ずと云ふ事無し。
 食物の時、大小便利の時を除ては、
 一生の間、法文に向はざる時は無し。

ほとんど書庫に籠っていた珍しい僧だったのだろう。
(推挙され内供奉十禅師。阿闍梨伝燈大法師。)
(911年 鴨川洪水で消失した愛宕念仏寺/覚山愛宕院再興。)
貴族出身の若きエリートの高僧として大活躍していたのである。

《「極楽国弥陀和讃」》本朝初の和讃である。
 亦、阿弥陀の和讃を造る事、廿余行也。(現存版は四句17行)
【以下引用】 "elkoravoloの日記"2012-04-20@Hatena Blog:ネット上にテキストがなかった模様とのこと。
  娑婆の界の 西の方 十万億の 国すぎて
  浄土はありつ 極楽界 仏はいます 阿弥陀尊
  七重行樹 かげ清く 八功徳水 池すみて
  苦・空・無我の 波唱え 常・楽・我・浄の 風吹きて
  天の音楽 雲にうつ 黄金の沙 地にしきて
  昼夜六時に 迎えつつ 宝の蓮 雨ふりて
  孔雀・鸚鵡の 声々に 妙法門を となうれば
  衆生聞く者 おのずから 仏・法・僧を 念ずなり
  仏の光 きわもなく 聖の寿 はかりなし
  誓いは四十八 大願 心一子の 大慈悲は
  十悪五逆 謗法等 極重最下の 罪人も
  一たび南無と 称うれば 引接さだめて 疑わず
  浄土十方 おおけれど 極楽われら 縁ふかし
  仏は三世に 在ませど 弥陀は我等に 契あり
  一日二日の 真心に 弥陀の御名を 称うれば
  大悲の誓い あやまたず 九品蓮台 さだまれり
  生れ生るる 人はみな 菩提不退の 菩薩衆は
  一生補処の その中に 算数も算え 知りがたし
  我らがこの身 楽しまん 弥陀の誓いに 救われて
  来世は蓮の 上にして この身は聖を 友とする
  人身ふたたび 受け難し 仏教あう事 稀なるに
  みな人心 ひとつにて 弥陀にはつかえ 奉れ
  望みの位 春の夢 楽しみさかえ 水の泡
  はしり求めて なすほどに わが身三途に 落ちぬべし
  三途に入りと 入りぬれば 無量劫にも 出でがたし
  たまたま人の 身を受けて 栄花ののぞみ またふかし
  およそ輪廻の きわ無きは このこと一つに よりてなり
  弥陀の誓いの 無かりせば 我らは浮かむ 時なけん
  釈迦牟尼仏 この由を 説きおきたまわず なるならば
  多くの生死 過ごしきて 長夜の闇に 迷いけむ
  帰命頂礼 釈迦尊 五濁悪世の 能化の主
  大悲我らを 捨てずして 三途の苦しみ ぬき給う
  帰命頂礼 弥陀尊 極楽界会の 能化の主
  たとい罪業 重くとも 引摂かならず 垂れ給え

現代歌謡の視点でも、よく練れた作品と言えよう。節回しがつくと、心に響き渡り、自然に口ずんでしまうのだろう。
この和讃の影響はとてつもなく大きかったようである。浄土教を貴族社会とその周辺に留めておかず、民衆レベルにまで広げた立役者と言ってよいだろう。
 京・田舎の老少貴賤の僧、此の讃を見て、興じ翫て、
 常に誦する間に、皆極楽浄土の結縁と成ぬ。
 而るに、千観、
 本より心に慈悲深くして、人を導き畜生を哀ぶ事限無し。
 
(浄土行へ傾倒。)

 (著作多数。「法華三宗相対抄」全50巻、等々。)
《「八箇條起請」》念誦読経を怠らぬこと 専ら興法利生 往生極楽を願うべきこと 戒律を護ること、・・・。
 而る間、千観、八事の起請を造る。
 此れ、僧の行として、翔ふべき事を誡る故也。

《「十願発心記」》上品上生を遂げ再び娑婆世界に戻り衆生救済。不退転の菩薩になる。
 亦、十の願を発して、衆生を利益せむが故也。

 千観、夢に止事無き人来て云く、
 「汝ぢ、道心極て深し。豈に極楽の蓮花を隔てむや。
 善根量無し。
 定めて弥勒の下生の暁を期せむ」と告ぐと見て、
 夢覚て後、泣々く悲び貴びけり。

 亦、権中納言藤原の敦忠
[906-943年]の卿と云ふ人の、
 第一の女子
[源延光室か.]有けり。
 年来、千観に師檀の契を成して、
 深く貴び敬ふ事限無し。
 而るに、
 千観に語て云く、
 「師、命終て後、必ず生れ給へらむ所を示し給へ」と。
 千観、此れを聞て後、
 年月を経て、
 遂に命終らむと為る時に臨て、
 手に造る所の願文を捲り、
 口に弥陀の念仏を唱へて失にけり。

 其の後、彼の女の夢に、
 千観、蓮花の船に乗て、
 昔し造れりし所の弥陀の和讃を誦して、
 西に向て行くと見けり。
 夢覚て後、女、
 「昔し、"生れむ所を示せ"と契りしを告たる也」と思て、
 涙を流して、喜び貴びけりとなむ語り伝へたるとや。


一般には、千観は空也の精神を継ぐ"民衆聖"とされている。
ところが、「今昔物語集」の文章だと、民衆広宣や法会には並々ならぬ力を発揮したのだろうが、民衆の只中に入って行く話が無いので、そんなイメージが浮かばない。衆生救済の浄土教思想の結晶化に努めた人のように映るのだ。作り上げた基盤が確固としたものだからこそ、和讃が素晴らしいモノに仕上がっているとの趣旨ではなかろうか。
しかも、権門寺院からの遁世に拘り、隠遁籠居した僧との印象を与えない内容になっている。
往生についての譚を集めた巻に収載されているにもかかわらず、そこらの描き方もえらく淡泊である。
962年 摂津国箕面山に隠遁籠居。
  村上天皇の勅で旱魃の降雨祈願を大滝で。功績あり。
  応和宗論(南都・北嶺の高僧討議)招請辞退。
964年 移住し金竜寺/安満寺@島上/高槻。
  日想観(日没時西方極楽浄土を想念)の地。
  ここで臨終を迎える。


同じように、応和宗論招請を辞退し、遁世籠居した増賀[917-1003年]聖人とは扱いが全く違うのである。反骨精神旺盛で奇行が目立つ仙人とは違うのだ。
  【本朝仏法部】巻十二本朝 付仏法(斎会の縁起/功徳 仏像・仏典の功徳)
  [巻十二#33]多武峰増賀聖人語 [→多武峰] [→仙境]

それに、有名な2つのエピソードを欠くことも大きい。

1つは、エリート僧だった頃の、宮中での法会からの帰途での、四条河原において布教中の空也上人との出会い。極楽往生について質問すると、拙僧は貴僧に教えてもらう立場と言う。そこを必死になって尋ねると、身を"捨ててこそ"とだけ言って立ち去ってしまうのだ。そこで愕然。立派な衣装を捨て、お付きを帰らさせ、念仏者として一人行く決意をしたのである。
もう1つは、籠ってからの活動。渡し場で荷物運搬者や、馬を引く者として、苦役も行っていたというもの。

おそらく、和讃に大きな価値を見出している「今昔物語集」編纂者としては、焦点がぼけるのを嫌ったのだろう。和讃こそ、一心不乱で民衆教化活動に邁進する各地の僧侶の琴線に触れるものだった、と指摘したかったということ。
その眼は鋭い。

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