→INDEX ■■■ 今昔物語集の由来 [2019.10.31] ■■■ [123] 性空聖人 【本朝仏法部】巻十二本朝 付仏法(斎会の縁起/功徳 仏像・仏典の功徳) ●[巻十二#34]書写山性空聖人語 当然、下記の和歌を詠んだ和泉式部とのかかわりも描かれていると思いきや、なんの話もない。 性空上人のもとに、よみてつかはしける 雅致女式部 [「拾遺集」♯1342] 暗きより 暗き道にぞ 入りぬべき 遥かに照らせ 山の端の月 編纂者がこの歌の存在を知らぬ筈もないから、伝記的に性空上人を描いておけば、読者はアノ歌が無いネと気付くという仕掛けかも。 "従冥入於冥"から始まる「法華経」の歌である。恋多き女性も、あの世が心配というところだろうか。と言っても、収載和歌集の編纂年代から見て、若い頃詠んだ歌らしい。 後世の作の可能性もあるが、書寫山圓教寺によれば、性空上人の返歌がある。返歌無しというのも礼を失しているから返歌はあったに違いなかろうとは思うが。 日は入りて 月まだ出ぬ たそがれに 掲げて照らす 法の灯 もともと、選者に和泉式部の作品が目に留まったのは、性空上人に関係する歌を収載したかっただけで、返歌には関心が薄かったのかも。 順に見て行こう。 〇播磨飾磨の書写山の(法華持経者)性空聖人は生まれは京。 父は従四位下橘朝臣善根。母は源氏。 〇不思議なことが起きる。 母は多産だったがすべて難産。 聖人懐妊の際は服毒したものの流産せず《安産》。 赤子は左の手に一本の針を握り締め生まれてきた。 聖人が《乳児》の時、 乳母が抱いたままで眠ってしまい、 目が覚めるといない。 大騒ぎになったが、家の北の垣根のそばに。 《幼児》の時から、 生き物を殺さないし、人の中に入って遊ぶこともなかった。 静かな所に居て、仏法を信じていた。 出家願望が強かったが、父母の許可下りず。 《10才》で、 師について法華経八巻を学習。 《17才》元服。 その後、 母に同行し日向》に。 《26才》。 ついに念願がかなえられ出家し、《霧島》に籠る。 ただただ心をこめて日夜法華経読誦。 寂しい地の庵での一人暮らし。 食料が欠乏した時に、戸口に温かな餅3枚が置かれていたことも。 食べると、数日間、飢えに苦しまずに済んだとのこと。 その後、霧島(山)から、《筑前背振山》に移住。[→地蔵講]…名前だけの紹介 《39才》。 法華経暗唱が身に付いた。 〇出家当初、 山中の人気無き場所で、心を澄まし読経中のこと。 10才位の子供達がやって来て、同じ場所に座って、一緒に読経。 品の良い老僧がやって来て、一枚の書き物を授けてくれた。 聖人は左手で受け取ると老僧は聖人の耳に口を寄せ、 「汝は法華の光に照らされ、等覚に到達する。」と。 その後、小人数だが弟子を抱えるように。 突然、17〜18才の、力が強そうな小さな赤毛の童がやって来て、 「聖人にお仕えしたい」と。 傍で使うことにした。 木を伐採・運搬させると 4〜5人分の仕事を軽くこなす。 使いに出せば、 100町もの距離を2〜3町の時間ですます。 他の弟子達は、重宝な童と思ったが、聖人は違い、 目つきが極めて恐ろしいしいので好きにはなれない、と。 数か月後、 先輩で少し年長の童とささいな事で口喧嘩。 赤毛の童は怒り手で殴りつけたところ 一撃で即座に気絶させられてしまった。 弟子達は顔に水を灌いだりして、息を吹き返したものの。 これを見た聖人は 「使うべきでない童である。 皆が褒めていれば、さらなる悪いことが起ころう。 赤毛の童は出て行け。」と言う。 しかし、当の童は出て行こうとしない。 泣きながら重い罪を受けてしまうというのである。 そこで、聖人は強制的に追い出した。 お使えを命じられたのに、追い出されたとなれば、 罰を受けることになります、と言いながら、 どこかに消えてしまったのである。 弟子たちは、何者かと尋ねると、聖人は由縁を語る。 「心に叶って気安く仕える者が必要なので、 毘沙門天に一人遣わしてくれるようお頼みしたのである。 そこで、従者が遣わされた。 いかにも煩わしい者であり、 このまま居ると問題が起きると思って、帰した。 僧房内で、恐ろしいことなどさせない。 このような事情を知らず、 喧嘩で殴殺など、極めて愚かだ。」と。 〇その後、(筑前)背振山から、播磨飾磨の書写山に移って、 三間の庵を造って住持することに。 日夜法華経読誦。 始めは音読経誦。舌が回って速読できるので、次は訓読経誦。 訓読みだが修練のお蔭で、人が4〜5枚読む間に、一部読了できた。 山野の鳥獣が完全に慣れ親しんでおり、側を離れないので 聖人は食べ物を分け与えていた。 聖人の身体には蚤・虱が付かない。 聖人は怒りの心も全く起こすことがない。 当国だけでなく隣国からも、老若・僧俗・男女が皆やって来る。 帰依しない者なき状態で、 世の中、尊ぶこと際限なし。 〇円融院[在位:969-984年]が譲位後に重病に陥る。 優れた高僧達の祈祷は効験顕現せず。 多くの人が、書写山性空聖人に依頼すべしと進言。 武士を遣わすことに。 辞退されても、必ずお連れせよ、と命じて。 院の使い一人と、聖人をお乗せする馬を引かせ、急遽播磨へ。 その日の宿泊は、摂津梶原寺@高槻の房。 夜中に目が覚め、臥せながら、つらつら考える。 書写聖人は持経者で、長年に渡り道心深きお方であり、 参内せずと決意しているのに、 無理矢理抱きあげ乗馬させてよいのだろうか、と。 極めて恐れ多いことをすることになりかねまいなどと悩む。 その時、上長押の上を鼠が走り回っていたが、 枕元に経紙の切れ端が落ちてきた。 灯火の下で読んでみると、法華経の陀羅尼品の偈。 「悩乱説法者 頭破作七分」 考えるだに恐ろしくなり なんと意味なきことをしているのかと、悲しくなった。 夜が明け、ともあれ仰せに従わねばということで 急ぎ書写の山へ。 持経者の僧房は、清水が流れる谷間にある、三間からなる萱葺き庵。 そのうち一間が昼間の御座所らしく、囲炉裏が設置されている。 次の間は寝所らしく、周囲に薦が懸っている。 残る一つには普賢菩薩の絵像だけが掛けてあり、他の仏像は無い。 板敷には行道の跡の窪みがあり、 それを見た武士は、清く尊いこと際限なしと思うのであった。 聖人から来訪目的を尋ねられ、 武士は、状況をご説明申しあげた。 一院は病気治癒がままならず、 今や、頼りは御聖人様だけ。 必ずお連れするようにとの仰せを承りました。 お連れ出来ないなら、 院への参内は永久にまかりならぬとも。 御聖人様にそのおつもりが無くても、 どうか、人助けということで、参内をお願い致したく。 人を破滅に追い込むことは、罪でございましょうし。 まさに、泣きだしそうな調子。 聖人は、 それほどまでの事ではない。 参上は容易いことだが、 仏にこの山に籠り外出せずと申し上げているから、 仏のお許しを得ようと言い、 仏間に歩いて行った。 武士は、逃げるつもりと見て従者を配置し、 私を助けるために参内を、と重ねて懇願。 聖人は仏の御前に座わり、鐘を打ち鳴らし、 「大魔障に遭遇。助けたまえ、十羅刹。」と大声。 木蓮子が砕けそうになるほど数珠をもんだ上、 額が破れんばかりに床に打ちつけた。 それを7〜8回。 身をよじり際限なきほどの号泣。 武士、性空聖人の凄まじい祈祷姿を見て考える。 連れて行かなくても、殺されることもなかろう。 せいぜい流罪か。 一方、聖人を強引に連れて参れば、 まず、現世も後生も良いことはないに決まっている。 それなら、僧房から逃げるのが一番。 従者を呼び集め、乗馬し鞭をあて逃亡を決め込んだ。 10町ほど坂を下ると、院の書面を捧げ持つ下役人に出会った。 そこには、聖人を召してはならぬ、とあった。 そのような御夢をご覧になられたということでの命だった。 帰参 お仰せなので、武士大喜び。 急いで帰参し 梶原寺で異変や僧房での聖人の振る舞いをご報告。 院はご自分の御夢もあり、大いに畏れられた。 〇身分の上中下、僧俗、様々な人々が、 京から聖人との結縁を求めて参詣するように。 〇花山法王の御幸は二度。 二度目には、延源阿闍梨という優れた絵師に聖人の肖像を描かせた。 また、聖人の最期の有様の記録もまとめさせた。 肖像を描かせている時、地震発生。 法王は恐れなさったが、 描いたためで恐れるに足らず、と。 完成時にも発生との言葉通りに。 法皇は下って、聖人を礼拝して帰京。 花山法皇[968-1008年]が命じた記録と肖像画とは・・・ ・「書写山性空上人伝」 ・"性空肖像図絵"…1898年焼失 [絵]巨勢広高[→巨勢派] [讃]具平親王[964-1009年 村上天皇第7皇子] [書]藤原行成 〇比叡山の源心天台座主は、供奉だった頃から、 書写聖人と交流していた。 ある時、聖人から手紙。 「長年、仏を祀って、写経を続けて来ました。 貴僧に供養して頂きたかったのですが、果たせずにおります。 そこで、どうしてもお越しい頂きたく。 なんとしても、この願いを実現したいのです。」 源心は急遽書写山に。 そして経文を供養したので、聖人は大いに喜び、尊んだ。 その国の人々も大勢集まり、尊んだのである。 様々なお布施があったが、 その中に紙に包まれた1寸ほどの針があり、 源心はその意味が分らなかった。 地域特産品なので針間かとも思ったが 帰る直前に聖人に尋ねたのである。 すると、聖人は由来を説明してくれたのである。 「不思議に思われたでしょうな。 この針は、私が生まれた時、 左手に握っていたモノ。 母が私にそう話して私にくれたのです。 ずっと持ち続けていましたが、捨てるのもナンですので 貴僧に差し上げることにしました。」と。 源信、尋ねてよかったと、大喜びして帰途。 摂津辺りで、追いかけて来た人に聖人逝去の報に接した。 1007年3月のこと。 聖人は死期を知っていたのである。 入滅時には、仏堂に入って、静かに法華経を誦していたという。 後のことだが、源心供奉は、 「世の中に仏法を説く僧は多い。 その中から、聖人は、私を最後の講師としてお呼びになった。 私の後世は頼もしいものがあろう。 前世の契りがどうだったのか、思い巡らしてしまう。」と言われた。 座主は、いつも、そんな話をしていた。 (C) 2019 RandDManagement.com →HOME |