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■■■ 今昔物語集の由来 [2019.12.11] ■■■
[164] 碁聖
正倉院御物には碁盤(桑材)・碁石(蛇紋石 石英)が含まれている。もちろん、聖武天皇愛用の素晴らしい工芸品が含まれている。かなり古い時代から愛されていたことがわかる。「酉陽雑俎」でも、異界でも行われていたりするし、清少納言も"たしなみ"として、それなりに力が入っていたようだから、皆の心を捉えたことがわかる。

「今昔物語集」では、醍醐天皇は碁がお好きだったことが分かる話が収載されているが、そこで登場する碁打ち相手の寛蓮[874年-n.a. 肥前藤津出身 橘良利]は碁聖とされたと伝わる。お手合わせの際は、ハンアィ2子だから、相当な腕前と言えよう。勅命で「碁式」913年(礼法,戦術,用具)を纏めさせたとされるが書は残存していない。
ちなみに、碁聖と呼ばれる本因坊道策[1645-1702年]は全く時代が異なる。昭和の碁聖と言えば、中国出身の呉清源だ。

どれほどの人気だったかが想像できる話としては、極楽往生した増賀上人の話がある。およそ、遊戯とは縁遠い僧だが、臨終に当たって、念仏を唱えるのではなく碁盤を用意させたのである。[→多武峰]

  【本朝世俗部】巻二十四本朝 付世俗(芸能譚 術譚)
  [巻二十四#_6]碁擲寛蓮値碁擲女語
 延喜期[901-923年 醍醐天皇代]
○僧である、碁勢と寛連は、碁の名手。
 寛連は家柄が良く、宇多院の殿上法師だったから
 醍醐天皇は、いつも召して、碁を打っていた。
 二目置いての後手である。
 ある時、金の御枕を賭けたことがあったが、
 天皇が負けてしまった。
 天皇は、若い勇ましい公家に命じ、
 寛連が枕を頂いて帰る途中奪い返させた。
 こんな状況なので
 寛連は、ついには、逃げていく途中で、
 懐から枕を引き出し、町の井戸に投げ込んだ。
 公家達は諦めて帰るしかなかったが
 その後、井戸の中に人を降ろして枕を引き上げた。
 見ると偽物だった。
 本物は仁和寺東の弥勒寺建立費用に当てられたらしい。
 醍醐天皇は、準備万端であるな、と言って、お笑いになった。

仁和寺は宇多法皇創建であり、御室を造営した。
○寛連、一条から仁和寺へ向かう途中、
 「お立ち寄りを。」と呼び留められ、
 質素だが風雅な趣の家に上がってしまった。
 よく手入れされた碁盤があり、碁笥も立派である。
 内から奥ゆかしい魅力的な女が出てきて、
 亡父に教わって以来対戦していないので
 一局お願いできないかと言う。
 女は、几帳の綻びから細い棒を差し出して
 先ずは先手で石を打つ。
 ところが、何目を置かすどころではなく、
 寛連の石は皆殺しにあってしまい、為す術もない。
 こんなことは初めてなので、怖恐心が生まれ
 履き物も忘れて車で仁和寺に逃げ帰ったのである。
 このことを申し上げると、
 院もいぶかしく思われ、
 次の日、人を遣わして尋ねたが
 留守居の尼しかいない。
 主人は筑紫におり
 ここ5〜6日は、方違えの人達がいただけというだけで
 誰だったのかはわからずじまいに終わった。

市井の人々も招いて対戦できないか、院にそれとなく探りを入れてみたのではないか。

お寺での囲碁対局は結構広まっていたようである。
  【本朝仏法部】巻十四本朝 付仏法(法華経の霊験譚)
  [巻十四#28]山城国高麗寺栄常謗法花得現報語
 山城相楽の高麗寺の僧 栄常と
 懇意な俗人が房で碁を打っていた。
 その時、乞食僧がやって来て、法華経を誦した。
 僧は、その声を聞いて笑ってしまい、真似をしたり。
 俗人は「穴恐し」と。
 以後、俗人は勝ち、僧は負けるように。
 さらに僧には経典通り仏罰が。
 「若し此の経を軽め謗る者有らば、
  世々に歯闕け、唇黒み、鼻平み、足戻りみ、目眇なるべし。」


尚、達磨の囲碁逸話についてはすでに取り上げた。
  【天竺部】巻四天竺 付仏後(釈迦入滅後の仏弟子活動)
  [巻四#_9]天竺陀楼摩和尚行所々見僧行語 [→達磨]

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