→INDEX ■■■ 今昔物語集の由来 [2019.12.22] ■■■ [175] 「法華経」v.s.「華厳経」 「今昔物語集」では法華経霊譚だらけの印象をあたえるし、仏道を心すれば、受持、読誦、写経は、ほとんどの場合"法花経"となる。 ところが、読んでいくと、本朝仏教伝来時に、その華厳経に絶大な霊験ありとされていたことがわかる。原典は、非濁[n.a.-1063年][撰述]:「三寶感應要略錄」。 【震旦部】巻六震旦 付仏法(仏教渡来〜流布) ●[巻六#31]天竺迦弥多羅花厳経伝震旦語 ⇒「三寶感應要略錄」中1 有人將讀華嚴經以水盥掌水所霑虫類生天感應 ●[巻六#32]震旦僧霊幹講花厳経語 ⇒「三寶感應要略錄」中3 釋靈幹講華嚴見天宮迎改生花藏世界感應 ●[巻六#33]震旦王氏誦華厳経偈得活語 ⇒「三寶感應要略錄」中6 王氏感地藏菩薩誦花嚴偈排地獄感應 ●[巻六#34]震旦空観寺沙弥観花蔵世界得活語 ⇒「三寶感應要略錄」中7 空觀寺沙彌定生見紅蓮地獄謬謂華藏世界感應 ●[巻六#35]孫宣徳書写花厳経語 ⇒「三寶感應要略錄」中4 唐朝散大夫孫宣コ發寫花嚴願感應 何と言っても、㉛は凄い。 【本朝仏法部】巻十四#15では、僧の法花経読誦を壁で聞いていた蟋蟀が、その功徳でヒトに転生し僧になったが[→前生蟋蟀の僧]、そのレベルを超越しているからだ。 こちらは、修行僧が華厳経読誦のため手を洗う。その時、水沫が飛び散り蟲にかかっただけだが、それだけで、一挙天に昇れるのだ。 〇天竺の執師子国の第三果を得た比丘 迦弥多羅だが、 震旦名では能支。 麟徳の初、震旦に渡来し聖跡参詣。 あまねく諸々の名山・寺々を巡り、 京西 大原寺に到着。 寺の僧達に花厳経を伝授。 「このお経は、大方広仏花厳経と謂う。 当地には、この経典は届いているだろうか。 このお経の題目を聞き奉る人は、 決定し、四悪趣に堕ちる事が無く、 その功徳は不思議なのである。 汝らも。知っておくべきである。 そこで、その不思議な話を語り聞かそうと思う。」 〇これは西国伝である。 比丘が、華厳経読誦を奉ろうと、先ずは手を洗った。 水を掌で受けたところ、その灌ぐ先に、 数多くの虫がいた。 その身に水がかかり、命が尽きてしまった。 しかし、皆天上に昇り、転生したのである。 これを知れば、 受持・読誦・解説・書写の功徳がいかばかりか 考えてみるべきである。・・・ 〇憂填国東南2,000里ほどの所にある盤と謂う国でのこと。 都城の辺にあった伽藍で、一人の比丘が大乗花厳経読誦。 国王や大臣も供養した。 その時、夜になると大きな光明が顕れ、城内を照らした。 王は驚き怪しんだのだが、 に、光明の中に百とも千にも達するほどの天衆が居り、 種々の天衣や諸々の宝を、瓔珞にして、王と比丘に施したのである。 そこで、王と比丘は、 「どの天から、どの様な理由で施されておられるのか?」と。 天衆は答えた。 「我等は、この伽藍の辺りに棲む虫である。 沙門が花厳経を読み奉りなさった際に、 水を掌に受けて手をお洗いになったが、 その水が灌いた所に居たので その水が身に触れることになり、我等は命を捨て 兜利天に生まれ変わった。 天に生まれたから、自然に、本縁を知ることに。 そこで、我等はこうして来訪し、その恩を報じている訳です。」と。 そして、昇って帰還して行った。 王は、天のこの言葉を聞いて、悲しくも喜んだのである。 「我が国には、あまねく大乗を流布し 小乗は留めておくべきではない。」と仰せになり、 それ以来、大乗を敬い貴ぶことに。 諸国の比丘も、国境から入ってきて小乗を学んだりすれば 即刻、退去させ、国内に留めさせなかった。 現在も、この方針は変わらずに続いている。 王宮内に華厳・摩訶般若・大集・法花等の経典、12部と十万偈を所蔵し、 王自ら受持。 〇能支は、このような事が甚だ多数発生している、と聞かせたのである。 寺僧達は、皆、これを聞いて、信仰心を深め、 華厳経の受持・読誦・解説・書写を奉じたと。 ㉜は蘇生譚。 遠近の人々を集め華厳経を講じていた僧 霊幹の話。 597年@隋文帝楊堅代、重病を患い逝去したが 蘇生し、こんなことがあったと語った。 「我、兜率天に上り行き、 休・遠、二人の法師を見た。 蓮華台上に坐していた両者は光明を放ち "汝は、我が弟子達と共に、この天に生れるべきだ。"と言った。」 翌年、病に。 何時も、 華厳を心に懸けており 蓮華蔵世界を観想し、 兜率天宮を感じており、 眼を上向きにして、ヒトと対面しなかった。 そして、お側に付いていた僧 童真に 霊幹はこう言った。 「ついに、青衣の童子がやって来て、 我れを兜率天宮へ引っぱって行こうとする。 そこで思った。 "天の楽は猶久しいと謂う訳ではない。 輪廻に堕ちる場所である。 それなら、蓮華蔵世界に生まれることを期するべきだ。"と。」 童真、それを聞いてからしばらくして、 「今は、どんな場所を見ておられますか?」と尋ねた。 すると、 「大水遍が満ちた中に華がある。 まるで車輪のようだ。 霊幹は、その上に坐しておる。 願っていた場所なので満足である。」と。 そうこうするうち、意識を失っていった。 598年正月、78才で入滅。終南の陰で火葬。 【参考】風輪の上に香水海があり、その中から生えている一大蓮華に含蔵されているのが蓮華蔵世界[華厳経巻八華蔵世界品] ㉝は、冥界からの蘇生譚で、救けてくれるのは地蔵菩薩だが、それを実現した偈は華厳経。 京師の王氏は戒を気に留めず善行もしなかった。 684年@唐睿宗李旦代、病没。 しかし、両脇は暖かいままで 3日後に生き返った。 「死んだ時、冥官2名がやって来て地獄門に連行された。 すると。沙門が登場して言うのだ。 …我は地蔵菩薩である。 汝は、京城に居た時に、 我が形を模した像一躯を造ったことがある。 ところが、未だに供養せす、投棄したまま。 しかしながら、造像の報恩はせねばならぬ。… そして、偈の一行を教えて、誦じた。 若人了知 三世一切仏 応当如是観 心造諸如来 沙門は、この偈を誦ずると 地獄の門は閉まり、浄土の門が開くと言う。 王氏はその偈を覚えて冥土に入城。 閻魔王に功徳を尋ねられたので、 「我、愚痴。 善を修せず、戒を持たず。 但し、一四句の偈を受持。」と。 そこで、今誦してみよと言われ、習ったばかりの偈を誦した。 この声が聞こえる所にいた罪人は皆、通過していき、 王氏についても 「速やかに、人間に戻れ。」とされたので生き返った。 花厳経の功徳は無量ということになる。 【参考】 「華厳経」菩薩説偈品第十六 唯心偈 心如工画師 画種種五陰 一切世界中 無法而不造 如心仏亦爾 如仏衆生然 心仏及衆生 是三無差別 諸仏悉了知 一切從心転 若能如是解 彼人見真仏 心亦非是身 身亦非是心 作一切仏事 自在未曾有 若人欲求知 三世一切仏 応当如是観 心造諸如来 ㉞では地獄が偈の声で突然にして天に様変わりする。まさに天地がひっくり返る驚き。 震旦 空観寺の沙弥 定生は、僧法を犯し、お経読誦もしていなかった。 ところが、華蔵世界の相を説く僧の話を聞き、 歓喜し、常に心に懸け、その浄土転生を祈願するように。 そうこうするうち、 僧法を犯す状況のままで 遂に死んでしまい、 紅蓮地獄に墜ちた。 にもかかわらず、 定生はこの地獄を見て、「これは華蔵世界だ。」と思ってしまい 歓喜し、 「南無花蔵世界妙土」と唱称したのである。 すると、その地獄が突然にして変化し、花蔵世界に成った。 さらに、定生が「花蔵妙土」と唱した声をを聞いた罪人達が、 皆、蓮花に坐したのである。 そこに居た獄卒が、この希有の事変を見て、 閻魔王にこ由を上申。 王が言うには、 「これは華厳経の大なる不思議の力なのだ。」と。 そして、偈を説いたのである。、 帰命華厳 不思議経 若聞題名 一四句偈 能排地獄 解脱業縛 諸地獄器 皆為 ・・・ 沙弥は 「地獄が皆華蔵と成り、 罪人は悉く蓮花に坐した」のを見た結果、 一日一夜で、生き返って、このように語ったのである。 その後、定生は、通力も得て 心も仏道に向かい、善行で修行を続けた。 しかし、その世界への生き方は分からなかったと言われている。 ㉟は経典写経功徳で蘇生したとの話。華厳経だが、それを法華経等他の経典に代替しても十分通用しそうなお話である。 唯一、閻魔王の裁可時点で、命を助けるように掛け合うのが、善童子であることで華厳経らしさが出るに過ぎない。 唐の時代。 衣安県に朝散大夫 孫宣徳の話。 宣徳は、因縁による祈願を思い立ち 華厳経写経を思い立ったが 不信心でもあるため、つい忘れていた。 もともと悪行だらけの生活でもあった。 ある日、狩猟に出て落馬し悶絶。 意識を失ったものの、一日後に蘇った。 泣き悲しみ、前非を悔い、 親友である思邈に語った。 …気絶すると、冥土役人3名がやって来た。 私は大きな城の前に連行された。 そこでは、五道大臣が居並び その中に閻魔王が座っていた。 閻魔王は私を責めて、 「汝は極めて愚かで、悪行ばかり行っている。 汝に殺された鳥獣がその不条理を訴えたので、 召し捕えたのである。」と言う。 庭には、殺された生き物達が幾百千万と居て、 閻魔王に無碍に命を奪われたと申し立てている。 閻魔王は立腹している様子。 その時、童子が出現。 「善哉」と名乗り、すぐに王の下へ。 すると、王は畏まって座から降り合掌し対面。 童子は、 「速やかに宣徳を放免して欲しい。 華厳経写経の願をかけたが、 未だに完了していないので。」と言う。 それに対して、王は、 「宣徳は不信の者で、願など忘れ去っている。 放免できぬ。」と。 そこで、童子は、 「宣徳は願を発した時には。不信の心は無かったのです。 その後に悪行ありと言っても、 それ以前の善行を見限ることはできません。」と。 王は、それを聞き、歓喜し、 「もっともなこと。 早速、放免し返すことにします。」と。 そして、童子は私に返る方法を教えてくれ 私は、生き返ることができたのである。 華厳経の功徳は不可思議。… この様に語ってから 宣徳は泣く泣く、忘却の咎を悔いて、 すぐに華厳経書写を完了。 思邈に言った。 「ついに華厳経を書写した。 ついては、兜率天に生まれ、 弥勒菩薩にお仕えしたい。」 86才で逝去したという。 本朝渡来時でも、華厳経は重要だったのだ。 しかし、その後、なんと言おうが、頂点にあるのが法華経ということになったようだ。 以下の譚では僧が実在名称ではなさそうだし、仏教史的には華厳から法華の流れが奔流化したことを意味しているのだろう。 それは、天部の信仰も巻き込んでいる法華経持経者のパトロンに圧倒的な力があったということでもあろう。 【本朝仏法部】巻十三本朝 付仏法(法華経持経・読誦の功徳) ●[巻十三#39]出雲国花厳法花二人持経者語 本大安寺僧に持経者が居た。 華厳経の法厳、法華経の蓮蔵。 事情で両者とも出雲にやってきた。 法厳聖人は華厳経読誦20年。 しかし、食物が思うようにならず歎いていたが ある時、仏法守護善神がヒト形で現れ、 檀那となって食膳を整えてくれるようになった。 これからは、嘆かず、大乗修行に徹せよということで。 ある日、 明日は法華経持経者が来訪するので 二人分の食事用意するようをじた。 しかし食事は届かず日が暮れてしまう。 ところが、蓮蔵聖人が返ると早速食膳を奉げて来た。 善神が言うには、 蓮蔵の周囲には、法華守護の、 聖衆、梵天・帝釈天・四大天王が居て 側に近寄り難かった、とのこと。 法華の聖人が去って、皆、一緒に去ったので こうして持って来ることができたと語る。 法厳聖人は稀有なことと思い 蓮蔵聖人のもとに行き供養・礼拝。 その後、法華功徳は殊勝と見た法厳は 蓮蔵に帰依し、法華経持経者となった。 華厳経の抽象化された仏は蓮華蔵世界の盧舎那仏であり、その観想対象の仏像は東大寺大仏である。 【本朝仏法部】巻十二本朝 付仏法(斎会の縁起/功徳 仏像・仏典の功徳) ●[巻十二#_7]於東大寺行花厳会語 聖武天皇が東大寺を建立。開眼供養をすることに。 講師は、天竺から招いた僧正。 行基は、読師を誰にするか決めかねていたが 天皇の夢に高貴な方が現れ、選定方法の仰せが。 開眼供養の朝に、寺の前に最初にやって来た者を読師とせよ、と。 僧俗貴賎を問うなとも、お告げになった。 最初にやって来たのは鯖を入れた籠を背負った鯖売りの翁。 そこで、天皇は老人に法衣を着けさせ、読師に仕立てた。 翁が鯖売りでしかないと言っても、天皇は聞き入れず、 高座に上らせた。 供養が終わると、鯖入籠を高座に残し、 籠を担った杖は堂前の東方に突き立て、 翁は消え去ってしまった。 籠の中を見ると、鯖ではなく、華厳経八十巻だった。 天皇は大変お喜びになり、 毎年開眼供養の日に華厳経を講じることに。 翁が鯖を担ぐのに使った杖は、今も御堂東の庭に立っている。 尚、同じ巻の#27には、病気治癒のため食べようと購入した魚が、肉食禁忌破戒僧の行為と見なされそうになったが、魚は法華経に変わっていた話[→魚食無罪]がある。 経典上位置付けでの" 「法華経」v.s.「華厳経」"は、者尊が悟りを開いて説教を始めた頃のものと、入滅を間近にした頃の違いということになろう。 それは、天台の"教相判釈"によく解釈である。 分類の最初は、釈尊の膨大な言説を記載した仏典を整理体系化する必要があるということ、鳩摩羅什[344-413年]の弟子が分類を始めたとされている。 竺道生版は4分類。 在家向け経典[善浄法輪] 声聞・縁覚・菩薩経典[方便法輪] 法華経[真実法輪] 大般泥洹経[無余法輪] 慧観版は釈尊が覚りを開いてから入滅迄を編年で五時とした。 四諦転法輪@鹿野苑 大品般若経 維摩経・梵天思益経 法華経@霊鷲山 大般涅槃経@娑羅双樹林 その後、天台智[538-597年]が一切経を五時八教に分けた。 華厳経@華厳時(菩提樹下含む7処8会) 阿含経・法句経[南伝大蔵系]@鹿苑時 維摩経・勝鬘経、等々[権大乗系]@方等時(祇園精舎、竹林精舎、等々) 大般若経・金剛般若経・般若心経@般若時(霊鷲山含む4処16会) 法華三部経・涅槃経@法華涅槃時(霊鷲山含む2処3会) インプリケーションが欲しいところ。華厳は大乗にもかかわらず、その思想が釈尊の説教の始まりで展開されたということだと、違和感を覚えざるを得ないからだ。法華経が最終到達点で、根底は華厳であるとの主張ならよくわかるが。 小生の印象からすれば、華厳は観想的というか、三世仏世を念じてその世界観を確立するという、いかにも知的な行に繋がるイメージがある。その基本思想は、世の事象は相互の有縁関係で成り立つというところにあるようで、極めて哲学的で、当然ながら、読誦より写経が勧められることになる。 一方の、法華はいかにも口唱的で称名念仏が似合う。言葉に魂が籠ると考える風土の地では後者の方が肌合い的に親近感を醸成し易かろう。 換言すれば、法華経に心を入れ込み祈願の呼びかけを行うと、直に対応して頂けそうな気分になる訳だ。より身近な信仰と言えそう。 歴史的には、南都では華厳を重んじ、平安の都は法華を重んじたということになろう。 (C) 2019 RandDManagement.com →HOME |