→INDEX ■■■ 今昔物語集の由来 [2020.1.21] ■■■ [205] 除目推量 [清少納言:「枕草子」第二十三段] 古文テキストを学び始めるとすぐに出て来る有名な段である。 これに呼応するが如く、「今昔物語集」には、紫式部の父親が漢詩の力でポストを射止めるる話がある。実態的には、外交関係を結ばず交易関係だけ上手く利用したい道長の作戦だったのだろうが。 [→漢詩集] [→紫式部の父弟] 【本朝世俗部】巻二十四本朝 付世俗(芸能譚 術譚) ●[巻二十四#30]藤原為時作詩任越前守語 猟官活動もすさまじきものだったに違いないが、目論みは成就するか気になり、除目評論家の意見を聞きたくなるものだったようだ。当たるも八卦とは違い、選定基準を示唆するような話があるので実用的だったらしいから、さぞかし人気だったことであろう。 【本朝世俗部】巻三十一本朝 付雑事(奇異/怪異譚 拾遺) ●[巻三十一#25]豊前大君知世中作法語 その推測者とは、豊前大君。 豊前王だとすれば、このような系譜に位置付けられる。 ┼○天武天皇 ┼│ ┼○第三皇子舎人親王[676−735年] ┼│ ┼○船王…隠岐配流 ┼│ ○弟大炊王/淳仁天皇[廃位 淡路配流] ┼│ ┼○葦田王…丹後配流 ┼┼○弟栄井王…木工頭 ┼┼│ ┼┼○豊前王[805−865年] ┼┼│ ┼┼○弘宗王[n.a.-871年]…賜姓["中原"] おそらく、自分がどのように査定されて官位を得ることになったのか、結構ご存知だったのだろう。当時、衣を頂戴する皇族だけで、600人近くになっていたそうで、その辺りの状況にもよく目を通していたようだ。 政局は、なにがあるかわかったものではないから、情報通となるべく努力を欠かさなかったと言うことでもあろう。 どうも、若い時から秀才の部類とされていたようで、"傾向と対策"を伝授し、味をしめていたと拝察する。 《経歴》 805年 誕生 826年 大学助 式部大丞 828年 父栄井王服喪 830年 諸陵助 832年 大宰大監 833年 従五位下 834年 備中守 839年 大膳大夫 840年 三河守 846年 大蔵大輔 班大和田使次官 847年 従五位上 安芸守 848年 伊予守 853年 正五位下 大和守 855年 左京権大夫 大和守如故 857年 母服喪 858年 民部大輔 859年 従四位下 861年 伊予守 864年 従四位 865年 逝去 本文は他愛もない筋である。・・・ 四位 刑部卿の豊前の大君は柏原天皇[桓武天皇]の御孫。 (豊前王は舎人親王曾孫でありここの記述には合わない。) 大和守に任じられた。 世間のことをよく知っており、心は素直。 公的な政治についての善悪も分かっていたので 任官儀式の除目が有る時は 空席の守の任命について、 希望している人々が選ばれるか、選ばれないか、 理由を述べて解説しており、 多くの人達がそれを聞いていた。 当日の結果は、この推察が外れなかったので、 実にに賢明な見方であると評判を呼び、 除目前になると、大君の屋敷に大勢の人が集まるようになった。 こんな状況だったのである。 「任官される。」 と言われると、手を合わせて喜び、 「任官されない。」 と聞かされると、 「何を言うか。道祖神を祭って狂ったのだ。」 と言い腹を立て返っていった。 「この人の筈。」と言って、違う人が選ばれると 「悪しき公的人事だ。」と批判したり。 そんなことで、天皇も、 「豊前の大君は、どのような除目と言っているか?」と。 親しく仕えている人々に、「行って尋ねよ。」と仰せになるまでに。 (C) 2020 RandDManagement.com →HOME |