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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.3.21] ■■■
[265] 釈迦族出自
「今昔物語集」全体を読み進めると、(逐次全巻読破では感じないと思うが、俯瞰的にボゥ〜と眺めていると、なんとなく見えて来るという意味で、)釈尊"仏教"のオリジナルな姿が提起されていることに気付かされる。

特に、注意すべきは、教団内分派主義者の扱いである。[→逆罪者提婆達多]
パーリ語「ジャータカ/釈尊前生譚]を読むと、殺戮対象者としての扱い。提婆達多は極悪人なのだ。

しかし、そのように描かれると、現代人だと、芥川龍之介:「侏儒の言葉」的に考えてしまう。・・・
   彼は最左翼の更に左翼に位していた。
   従って最左翼をも軽蔑していた。

従って、セクト抗争は熾烈なものになる、殺生は禁忌な筈だが、この殺人は厭わないのである。権謀術数の世界で生き抜いていた「酉陽雑俎」の著者にしても、そんな風に見ていたに違いない。

しかし、「今昔物語集」編纂者は全く違った視点で見ていたのでは。
そこらで気付いたことを書いておこう。

○一つには、
「今昔物語集」の本朝部では徹頭徹尾「法華経」第一主義的社会として描かれており、編纂者はこの経典を徹底的に読んでいた筈、という点があげられる。
この経典中での提婆達多は、殺戮されるべき分派極悪人として登場している訳ではない。この矛盾に気付かぬ訳がなかろう。
そして、西域〜天竺旅行記類も丹念に読んだのも間違いなく、提婆達多勢力とは異端の少数集団ではなく、それなりの力を持っていたことも知っていたに違いないのだ。

普通に考えれば、修行では、俗文化の影響をできる限り排除べしとの主張は受け入れやすい。提婆達多は、そうした考え方に立脚していたと言われているから、釈尊以前の修行者のそうした姿勢をママ引き継いでいる人達の一大勢力があってしかるべきだろう。
「今昔物語集」はここらの感覚を伝えようとしている気がする。
異端との線引きを概念的にどうとらえるべきか考えてみよ、ということでもある。

○二つ目は、
誰でもが知る、釈尊以前の過去佛についての譚を収録している点。
一般的解説はあるものの、誰のどのような信仰かよくわからず、その意義は曖昧な感じがするが、それをなんとなく理解させるような話に作り上げている。
  《過去七仏》
 毘婆尸仏
 尸棄仏
 毘舎浮仏
 倶留孫仏
 倶那含牟尼仏
 迦葉仏
 釈迦牟尼仏

ということで、見ておこう。・・・
  【天竺部】巻四天竺 付仏後(釈迦入滅後の仏弟子活動)
  [巻四#29]天竺山人見入定人語
  ⇒玄奘:「大唐西域記」@646年 十二烏国ウサー
   …卒塔婆を立て、拝礼し帰った。
 釈尊入滅後のこと。
 天竺の極めて峻厳な山に落雷。
 崩壊した山に、比丘がいた。
 その身体は枯れて乾ききっており、目を瞑っていた。
 鬢や髻の毛は肩まで伸びていた。
 入山して見かけた人は、驚き怪しみ、国王に報告。
 国王は自ら大臣や100名もの家来を引き連れ訪問し
 礼拝供養。
 「極めて貴いお方のようだが、誰なのか?」
 と御下問。
 僧によれば、
 「出家の羅漢が滅尽定に入っているだけでございます。
  長い時を経ているため、
  髪が伸びております。」とのこと。
 そこで、国王は、目を覚まし起こさせる方法を尋ねた。
 僧によれば、
 「突然、定から出せば、身体が壊れてしまいます。
  何かを撃ち、大きな音で起こせばよいでしょう。」とのこと。
 そこで、羅漢の身体に乳を塗り、椎の木を撃たせた。
 羅漢は目醒め
 「一体、誰なのか?
  容姿は卑しいが、法服を着ているし。」と一言。
 僧:「比丘でございます。」
 羅漢:「師の迦葉波如来は、何処で如何していらっしゃいますか?」
 僧:「涅槃に入られてから、ずいぶんと時が経っております。」
 羅漢に、哀しみと歎きが生まれた。
 羅漢:「釈迦牟尼仏は悟りを開かれましたか?」
 僧:「仏陀となり、多くの衆生を救い、涅槃に入られました。」
 羅漢はそれを聞き、がっかりした様子。
 暫くして、手を髻に挙げ、虚空に昇ってしまった。
 そして、火を出して身を焼いたのである。
 その骨が地に落ちてきたので、皆で拾い、
 卒塔婆を立て、拝礼の上、帰っていった。


このことは、釈尊の住んでいた地域では、すでに修行し仏になった者がおり、"仏"信仰が定着していたことを示唆している。つまり釈尊は、"釈迦族"教としての"仏"信仰教の改革者ということになろう。

○三つ目は、
以上2つを鑑みるとなんとなしに分かってくるのだが、釈尊血族の自尊心の高さを取り上げていそうな点。

逆に言えば、教団内部的には、釈尊血族 v.s. 一般出身者という、心理的バリアがあったことを意味しよう。
舎利弗 v.s. 阿難とは、その状況を示すもの。言うまでもないが、阿難は釈尊に付き従う特別な弟子であり、血族的には従兄弟にあたる。
  【天竺部】巻三天竺(釈迦の衆生教化〜入滅)
  [巻三#_6]舎利弗慢阿難語
 仏弟子は大勢いたが、そのうち、舎利弗は智恵第一。
 一方、阿難は学中の人で、智恵はまだまだ浅い。
 そこで、舎利弗はいつも阿難を軽視。
 阿難は、舎利弗に優ろうと思っており、
 仮病で、風邪と言って
 枕元に粥を置いて寝ていた。
 舎利弗は見舞いに訪れた。
 白衣で法服を着用しない姿だった。
 阿難は、手を付けていない粥を
 舎利弗に供し、
 寝ている莚の下から一本の草を取り出し、
 「速やかに大師の御許に。」と。
 舎利弗はその通りにしたところ、
 自分の手足の爪が牛の爪になっていった。
 舎利弗は驚き怪しみ、仏のもとに参上し、尋ねた。
 すると、
 「汝の身体はすでに牛と化している。
  持って来た草はお前の食べ物だ。
  そうなった、理由は知らないから、
  速やかに阿難に尋ねるように。」と。
 驚いて、阿難のもとに行き、その仰せを伝えた。
 阿難が答えるに、
 「汝は、思い知るべきし。
  袈裟を身に付けずに、
  呪願も行なわず、
  布施を受ける比丘は
  報いを受けて畜生となる。
  汝は、その罪を犯していることにさえ
  全く気付かずに布施を受けた。
  その報いだ。」と。
 舎利弗、心から懺悔。
 そして、爪は元通りに。

もちろん、ご教訓は単純。供養を受ける時は袈裟を着用し、必ず呪願すべしというだけに過ぎない。

○四つ目は、
阿難も提婆達多も釈迦族の貴族という点。
それ自体にたいした意味は無いが、家系で考えると、強烈な反ベーダ感情に貫かれた少数部族であることが見えてくる。
それは所謂、バラモン(司祭者階層) v.s. クシャトリア(王族)とは違う。その根底には、アーリア系信仰(ベーダ教) v.s. 東アジア的信仰(釈尊以前の"仏"信仰)があると見て間違いない。
つまり、仏教は天竺発祥ではあるものの、その根源は南アジア北部にある訳ではなく、東アジア。(実は、それを感じ取っているからこそ、本朝では、ご飯のことを"舎利"と呼ぶのである。)
ここだけ聞けはトンデモ論に聞こえるが、極めて常識的判断でしかない。
もともと、釈迦とは、一部族の名称で、宗祖の名称ではないことを「今昔物語集」編纂者は十分に認識しているということでもある。
  《釈尊系譜》…但し、様々な説があり適当に解釈。
○獅子頬王/日種王

├┬┬┐
○浄飯王/閲頭檀
│○白飯王
││○斛飯王
│││○甘露飯王
││││
│││├┐
│││○跋提…最初の弟子
│││○婆娑
││├┐
││○阿那律/アニルッダ…天眼第一
││○摩訶男…達多太子出家隨身者
│├┐
│○提婆達多/デーヴァダッタ/調達…"犯五逆罪"
○阿難/アーナンダ…多聞第一
○悉達多/シッタルタ=釈尊

王の名前から見て、明らかに稲作民族に属する少数部族。住んでいる環境は山麓付近の川縁で、平原や湿地帯からは遠く離れた地。山の生業も兼ねていた可能性さえある。釈尊存命の年代を考えると、インド亜大陸での稲作はこの地のみでもおかしくない。
従って、非稲作民族(ベーダ経典信仰)とは文化的に乖離していておかしくなかろう。
つまり、釈尊は稲作部族の貴種に連なる人と考えることもできよう。だからこそ自尊心が高いのである。
稲のルーツが揚子江中流の山麓に近い扇状地だったとすれば、その系譜を引いていると考えるのが自然だ。東は越から日本列島だが、西は雲南・アッサムから釈迦族の地にまで伝播したと見る訳だ。
釈迦族Śākyaはアーリヤ人系ではなく、東アジアから流れてきた貴種と考えるのが自然である。

"釈種"譚が、本朝の「古事記」天皇譚を彷彿させる内容になっているのも当然だと思われる。
  【天竺部】巻三天竺(釈迦の衆生教化〜入滅)
  [巻三#11]釈種成竜王聟語 [→龍池伝説の地]

ともあれ、その貴種少数部族も滅亡に至る。
  【天竺部】巻二天竺(釈迦の説法)
  [巻二#28]流離王殺釈種
「今昔物語集」編纂者は「仏説流離王経」を読んだということになろう。そちらの筋を見ておこう。・・・
 釈尊は波羅奈国/ベナレス仙人鹿野苑に。
 まだ、大沙門だった頃。
 舎衛城では波斯匿王
[薩羅/コーサラ国王]が王位継承。
 迦毘羅衛国[釈尊母国]"釈種"との婚姻関係樹立を決定
 結集した釈迦族五百人に、否なら軍事力行使との勅を伝達。
 名族としての誇りで釈迦族は憤慨したものの、
 凶暴な王なので、婢の生んだ子を娘として奉じた。
 その子供が、流離太子。
 少年になり、王命で釈迦族の家で弓術等を学習。
 新しいお堂で開講することになったが
 太子は仏の師子座に上がってしまった。
 釈迦族瞋恚。太子を地に転がし罵倒し、侮蔑。
 お供の婆羅門の子の好苦に太子は宣言。
 忘れずに、この毀傷・屈辱の報復を必ず実行、と。
 波斯匿王が死去し、王位が継承され、
 好苦はそのことを上申。
 早速、象、馬、車、歩の兵で迦毘羅衛に出陣。
 釈尊はそれを聞きおよび、
 進軍路の枯れ木の下に座し、到来を待った。
 波斯匿王は下座拝礼し、理由を聞くと
 親族の蔭は、他人の蔭に勝ると云うので、
 日が悪いので進軍取り止めに。
 そして、同じことが再び繰り返された。
 さらに三度目。
 それを知った弟子の目連は
 師に、自分は兵を投げ討とうと考えていると言うが、
 釈迦族の宿縁を変えることはできまいとの返事。
 又、迦毘羅衛国を空の上に移そうか、とも。
 再度、釈迦族の宿縁を変えることはできまいとの返事。
 そこで、迦毘羅衛城の上を、粗い鉄籠で覆ましょうと、
 やはり、釈迦族の宿縁を変えることはできまいとの返事。
 今日、宿縁が熟したのであり、これは報いなのだと看破。
 神通力も、宿縁にはどうにもならぬと説かれたのである。

本生譚となって、話はまだまだ続くが、結局のところ、"釈種"は虐殺され、城も破壊され尽くす。
 その結果を見た釈尊は偈を説く。
    一切行無常 生者必有死
    不生則不死 此滅為最樂
 そして、流離王と兵は七日で世を去ると予言。
 流離王は心配したが、七日目も無事だったので
 阿脂羅河の辺で宴会。
 宿泊していると、突然の暴風雨ですべて流されてしまった。
 皆、阿鼻地獄へ。

そして、ジャータカ(前生譚)でこのお経は〆となるのである。

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