→INDEX ■■■ 今昔物語集の由来 [2020.4.5] ■■■ [280] 枇杷殿 もともとは、東東洞院大路、西烏丸小路、南近衛小路、北鷹司小路の一町の土地に、権中納言藤原長良が建設した邸宅だが、その後の住人は、長良⇒基経⇒仲平⇒道長と移っていった。 藤原仲平の時、敷地内には宝物を満たした蔵が並んでいて、邸内には果樹が沢山植えられていたと言われている。寝殿造りの御所風ではなかったのだろう。 その邸の持主たる枇杷殿こと、仲平の話を取り上げてみよう。 お話から察するに、なかなかに面白い人物に映るが、蓄財上手の上に、温厚で思慮深いお方とされているようだ。藤原一族内での熾烈な角逐のなかで、官位では若者に後れをとったものの、老齢になっても頑張り抜き、重鎮として確固たる地位を占めていたようである。 《藤原北家系譜》 │ ○冬嗣 │ ├┬┬┐ ○良門 ┼○長良 ┼│○良房 ┼│┼○順子仁明后] 吉子文徳后] ┼│ ┼├┬┬┐ ┼○国経 ┼┼○遠経 ┼┼┼○基経[836-891年](良房養子) ┼┼┼│○高経 ┼┼┼│ ┼┼┼├┬┬┬┬┐ ┼┼┼○時平[871-909年] ┼┼┼┼○仲平/⇒静寛[875-945年] ┼┼┼┼┼○兼平 ┼┼┼┼┼┼○忠平[880-949年] ┼┼┼┼┼┼│○良平 ┼┼┼┼┼┼│┼○温子[宇田后] ┼┼┼┼┼┼│ ┼┼┼┼┼┼├┬┬┬┐ ┼┼┼┼┼┼○実頼[900-970年] ┼┼┼┼┼┼│○師輔[909-960年] ┼┼┼┼┼┼│┼┼○師保 ┼┼┼┼┼┼│┼┼┼○師氏 ┼┼┼┼┼┼│┼┼┼┼○師尹 【本朝仏法部】巻二十本朝 付仏法(天狗・狐・蛇 冥界の往還 因果応報) ●[巻二十#43]依勘文左右大将可慎枇杷大臣不慎語 朱雀院代の天慶年間。 天文博士が 「月が大将の星を犯す。」と見立てた勘文を奏上。 それによると、 「左近と右近の大将は厳重に身を慎むべし。」と。 その時の左大将は枇杷左大臣仲平。 右大将はその甥の小野宮右大将実頼。 そこで、 右大将は春日神社・山階寺等で様々な祈祷を行った。 左大将の祈りの師である東大寺の法蔵僧都は、 同じ奈良にある山階寺で、右大将が御祈祷されるのを見て ご祈祷のご要請があるものと待っていたが 何のご連絡もないので不審に思い上京し枇杷殿のもとに参上。 大臣:「何事あって、上京されたのか?」 僧都:「奈良で承ったのございますが、 "左右の大臣は慎むべし。"と天文博士が勘へ申したと。 右大将殿は春日御社・山階寺等で御祈様なさりましたので、 "殿からも仰せ仕る。"と思っておりましたが、 ご連絡き無き状態でございますので不審に思われ、 急ぎ参上したのでございます。 ご祈祷をなされた方が良いのではないでしょうか。」 大臣:「全くもって、もっともな事。 そのように言ってもらえて極めて嬉しい。 しかしながら、我が思うに、 "左右の大臣は慎むべし。"と勘へ申したからといって それに対応して、 "我も負けてはおれぬ。"と慎めば、 右大将のためには悪きことになってしまう。 彼の右大将は、才があり賢い方でおられ、まだ年もお若く、 長らく公的にお仕えすることになるお人だ。 我の方は、年老いており、たいした事も無い身なのだから "死んだからといって、何事のほどのことがあろう。" そんな風に考えてしまうので、祈祷はしないのだ。」 僧都はそれを聞き、涙を流して言った。 「それ、百千万の祈祷にも優りましょう。 そのお心、その教え、 我が身を捨て、人を哀れむは限り無き善根でございます。 必ずや、三宝のご加護がありましょう。 しかれば、祈祷無しだろうと、恐れる必要はございません。」 と言ってから、僧都は帰っていった。 その後のことだが、 左大将には実に露ほども病がなく、 70余才まで大臣を勤め続けたのである。 次世代に実権を渡したかのように見せながら、左大臣職を手放さないなど、そうそうできることではない。娘を后や女御をすることで影響力を発揮し合うなかで、パワーバランス上不可欠な人とされていたのだろう。 そこらの機微を肌感覚でわかっていたということか。 そう考えると、以下の話も納得がいく。 【本朝仏法部】巻十四本朝 付仏法(法華経の霊験譚 ●[巻十四#_1]為救無空律師枇杷大臣写法花語 Wikiに筋が記載されているので引用させて頂こう。 無空は自分が死んだときの供養で弟子を煩わせまいと、ひそかにその費用として銭1万を用意し天井裏に隠していたが、弟子にそのことを告げないまま病死した。藤原仲平(枇杷左大臣)は無空と親交があった。ある夜、仲平の夢に無空がボロボロの汚い衣を着て現れ、「隠しておいた銭のため往生できず、蛇と化して苦しみを受けている。どうかその銭で法華経を書写してくれ」と懇願した。仲平が高野山の無空の住房に行き天井裏を捜すと、果たして銭1万と蛇がいた。仲平は早速、京に帰って銭をつかって法華経1部を書写供養した。すると再び無空が夢に立派な法服を着て香炉を持って現れ、「おかげで極楽にいける」と礼を述べて西に向かって去っていった。 無空の示寂の地は山城 円提寺@綴喜]と伝わる。真言宗の僧侶として有名だが、それは上記の話からではなく、東寺から借用した経典を要請があっても返却せずに、どこまで本当かわからぬが、持ち去られないようにといつも持ち歩いたという逸話。その後、弟子の時代に入り、天皇命で戻ししかなくなり、権威が東寺に移行してしまい、高野山は寂びれたというのである。 こんなことをスラスラ書いているのは上記の文章が、「無空」の解説の一部だから。第2代金剛峰寺座主で権律師とあり、当然ながら高野山での話ということで軽く目を通してわかった気になってしまう。 ところが、「今昔物語集」を読むと、そういう訳にはいかない。上記とは違うからだ。 小生の眺めている版では、この譚の冒頭に"比叡山の無空律師は、云々。"とあるからだ。 常識的にこんな間違いをする筈がないから、恣意的な書き換えでは。(比叡山の無空は、空海以外にはいないようだ。) 無空の往生信仰は阿弥陀仏の極楽浄土のようであり、弥勒菩薩の地でないことを指摘したかったのだろうか。 「今昔物語集」は往生譚集、慶滋保胤:「日本往生極楽記」から引用しているが[→]、もちろんこれもその一つ。[#七]そこでは、高野山とも比叡山とも書いていないが、わざわざ書く必要など無いのである。・・・ 律師無空平生念仏為業。衣食常乏。自謂。我己貧後定煩遺弟。竊以萬錢置于房内天井之上。欲支斂葬也。律師臥病言不及錢。忽以即世。枇杷左大臣輿律師有故舊。矣大臣夢律師衣裳垢穢。形容枯槁來。來相謂曰。我有伏藏錢貨。不度受蛇身。願以其錢可書寫法花經。大臣自到舊房。捜得万錢。錢中有小蛇。見之逃去。大臣忽令書寫供養法華経一部了。他日律師法服鮮明。顔色悦懌。持香爐。來謂大臣曰。吾以相府之恩得免邪道。今詣極樂。語了西向飛去焉。 それにしても、一心に極楽往生に向けて修行三昧の僧が貯めることができるとは思えない大金が隠されていたなど、可能性としては低すぎる。 常識的には、蓄財上手と呼ばれていた枇杷殿が持って来たということだろう。貧乏なので、葬儀もたいしたことができず、ここは写経で供養せねばなるまいということで、画策したとしか思えない。 流石、プラグマティックで穏やかに物事に対処する枇杷殿ということか。 ・・・そのうち取り上げるとしていた譚である。[→「間違った情報」] (C) 2020 RandDManagement.com →HOME |