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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.4.9] ■■■
[284] 大斎院
"大斎院"とは、 天皇5代に渡って(円融⇒花山⇒一条⇒三条⇒後一条)、57年間賀茂斎院を勤めた、村上天皇第10皇女選子内親王の号。
清少納言や紫式部が名前を引くように、当時の女流文壇の中心にいた人である。
「今昔物語集」編纂者は歌が堪能ということで高く評価している。
  【本朝世俗部】巻二十四本朝 付世俗(芸能譚 術譚)
  [巻二十四#57]藤原惟規読和歌被免語 [→和歌集] [→紫式部の父弟]

醍醐天皇代とは違い、内親王と認定できる未婚皇女の数が余りに少なくなり、優遇者(予定あり)の資子内親王を外し、さらに年齢を勘案すれば、選子内親王斎院選定は自然なもの。その後の皇女リストを見ると、長期に渡ったのは致し方なかったともいえそう。・・・
---(60)醍醐天皇皇女---
   [_1]勧子[899年-n.a.]
   [_2]宣子[902-920年]…
12代賀茂斎院
   [_3]恭子[902-915年]…
11代賀茂斎院
   [_4]慶子[903-923年]…敦固親王室
   [_5]勤子[904-938年]…右大臣藤原師輔室
   [_6]婉子[904-969年]…
14代賀茂斎院
   [_7]都子[905-981年]…無品
   [_8]修子[n.a.-933年]…元良親王室
   [_9]敏子[906年-n.a.]
   [10]雅子[909-954年]…伊勢斎宮@931-936年 右大臣藤原師輔室
   [11]普子[910-947年]…源清平室 後に藤原俊連室
   [12]靖子[915-950年]…大納言藤原師氏室
   [13]韶子[918-980年]…
13代賀茂斎院
   [14]康子[919-957年]…右大臣藤原師輔室
   [15]
   [16]英子[921-946年]…伊勢斎宮@946-946年
   [17]斉子[921-936]…伊勢斎宮@936-936年
    [重明親王女]徽子女王…伊勢斎宮@936-945年 斎宮女御/村上天皇女御
    [重明親王女]悦子女王…伊勢斎宮@947-954年
    [重明親王女]隆子女王…伊勢斎宮@969-974年
    [章明親王女]済子女王…伊勢斎宮@984-986年

---(61)朱雀天皇皇女---
   [_1]昌子[950-999年]…冷泉中宮
--- (62)村上天皇皇女---
  《中宮 藤原安子》[927-964年]
     ○没
   [_1]承子[948-951年]
     ○冷泉天皇
     ○一品式部卿
   [_7]輔子[953-992年]…伊勢斎宮@968-969年
   [_9]資子[955-1015年]…一品准三宮
     ○円融天皇
   [10]
選子/大斎院[964-1035年]…16代賀茂斎院
    [為平親王女]恭子女王…伊勢斎宮@986-1010年

  《女御 徽子女王》[929-985年]
   [_4]規子[949-986年]…伊勢斎宮@975-984年
     ○没
  《女御 荘子》[930-1008年]
   [_6]楽子[952-998年]…伊勢斎宮@955-967年
     ○二品中務卿

    [具平親王女]子女王…伊勢斎宮@91016-1036年

  《女御 藤原述子》
  《女御 藤原芳子》
     ○
     ○四品兵部卿
  《更衣 源計子/広幡御息所》
   [_2]理子[948-960年]
   [_5]盛子[951-998年]…(降嫁)左大臣藤原顕光室
  《更衣 藤原正妃/按察御息所》[n.a.-967年]
   [_3]保子[949-987年]…(降嫁)摂政藤原兼家室
     ○四品兵部卿
     ○四品常陸太守
  《更衣 藤原祐姫》
     ○三品兵部卿・大宰帥
   [_8]緝子[n.a.-970年]
  《更衣 藤原脩子》
  《更衣 藤原登子》

---(63)冷泉天皇皇女---
   [_1]宗子[964-986年]
   [_2]尊子[966-985年]…
15代賀茂斎院(982年落飾 985年受戒)
   [_3]光子[973-975年]

---(64)円融天皇 皇女なし---
---(65)花山天皇 皇女あれども"内親王"位無し---
---(66)一条天皇皇女---
   [_1]脩子[996-1049年]
   [_2]子[1000-1008年]…東三条院養女

---(67)三条天皇皇女---
   [_1]当子[1001-1023年]…伊勢斎宮@1012-1016年
   [_2]℃q[1003-1048年]…藤原教通室

    [敦明親王女]嘉子内親王…伊勢斎宮@1046-1051年
    [敦平親王女]敬子女王…伊勢斎宮@1051-1068年
    [敦賢親王女]淳子女王…伊勢斎宮@1073-1077年

---(68)後一条天皇皇女---
   [_1]章子/二条院[1027-1105年]… 後冷泉天皇中宮
   [_2]馨子/西院皇后[1029-1093年]…
17代賀茂斎院

齋院は、神に仕える身であるから、仏教信仰持ち込みは禁忌であるが、その心情を吐露していたことでも有名である。・・・
  賀茂の斎院ときこえける時に、西にむかひてよめる
   思へども 忌むとて言はぬ ことなれば
    そなたに向きて ねをのみぞなく
 [「詞花和歌集」#410]
  大皇太后宮、・・・、上東門院と申しき。
  ・・・世を逃れさせ給ふ。・・・
  大斎院と申ししは、選子内親王と聞こえさせ給ひし、
  この御事をきかせ給ひて、詠みて奉らせ給へる御歌。

  君はしも まことの道に 入りぬなり 独や長き 闇に惑はむ
    [寂超:「今鏡」1170年第一 2子の日][⇒「後拾遺集」巻十七雑三#1026]

年譜では以下のようになっているが、仏教禁忌の身であるから、「発心和歌集」を編纂できるとは思えない。誰かがダミーになっているということか。  _964年 出生 5日後母没
   _967年 村上天皇崩御 堀川殿藤原兼通の元へ
   _975年 16代賀茂斎院(冷泉天皇皇女尊子内親王後任)
   _977年 斎院御所@紫野
   1012年 「発心和歌集」編纂
   1031年 老病により退下 出家
     "伝聞、今夜斎院御出家、大僧正奉授戒"@「左経記」9月29日
     ・・・深覚[955-10430年 藤原師輔11男 東大寺別当法務大僧正]
   1035年 薨去


「今昔物語集」の記載では斎院御所を出て三井寺の慶祚[955-1020年]阿闍梨の僧房で出家し往生することになっており、上記とは異なるが、出家譚が収録されている。
全体のストーリーから見ると、出家行為や往生の様子について書こうとの気があった訳ではなく、巻十九に入れるためにつけた題と言ってよいだろう。
  【本朝仏法部】巻十九本朝 付仏法(俗人出家談 奇異譚)
  [巻十九#17]村上天皇御子大斎院出家語
 大斎院(選子内親王)(62代)村上天皇皇女で、(64代)円融天皇は御兄。
 素敵で素晴らしいお方ということで上達部・殿上人が絶えず参上。

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 いよいよ、世も末。
 斎宮も老齢に達し、ことさら参上する人もいない。
  
(「末法燈明記」では1052年から末法の世。)
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 後一条天皇代[1016-1036年]の末。
 信仰心篤き4〜5人の殿上人が、西の雲林院での不断念仏を、
 9月中頃に10日間程行っていた。
 終了の夜、月は艶っぽく明かるく輝いていた。
 雲林院から返ったのは丑の刻頃。
 その時、斎院東門が細目に開いていたが、
 その内がよく見えないので入って覗いてみることに。
 夜更けで、人影はない。
 東の屏戸から入って、東の対の北面の檐の方を
 密かに見てみると、
 御前の前栽は高く生ひ繁っていて、あるがままのようで、
 剪定する人も無いのだろうと、哀れ感を催す状態。
 月光に照らされた露が光り、様々な虫の音が聞こえている。
 枯れてしまったのか、遣水の音もしないし、
 人の声も全く聞こえない。
 船岳からの吹き下ろしが冷たく感じた。
 そして、御前の御簾が一寸だけ揺れており、
 そこから薫物の香が艶ず馥く匂ひ出て来たのである。
 御隔子は下げられているものの、薫る匂が華かそのもの。
 どういうことか、眺めていると
 風に吹かれ、御几帳の裾が少し見えた。
 早くに御隔子をお下げになってしまい、
 月を御覧にならないのだろうと考えていたが
 奥から箏の律平調の音が少し聞こえて来たのである。
 ほのかにに聞けば、掻合せ一局の奏楽。
 それ聞いていると、限りなきほど素敵だった。

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 寝殿の丑寅の戸の間は、女房のもとに通ための会ふ場所。
 住吉の姫君の物語りが書いてある障紙が立っている。
 そこに1〜2人が気色ばめば立ち寄ると女房が2人ほど居た。
 殿上人も思い懸けず物語する気分に。

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 昔、殿上人が常に参って来て、
 御箏・御琵琶を常に弾いて
 楽しく遊ばれたものでだったのに、
 今は絶て無いし、参る人もいない。

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 昔めきて、哀れになむ思し・・・といったところ。
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 その後、同年11月、斎院をお忍びで出立され、室町に御移りに。
 さらに、そこから、三井寺の慶祚阿闍梨の房に。
 剃髪されて尼になられ、道心を発し、
 もっぱり弥陀念仏を唱へられ、極めて貴くお亡くなりになった。


譚末のご教訓挿入箇所に、突然、脈絡なく、"入道の中将"が登場してくる。
  「現世も微妙く可咲しくして過させ給ひにしかば、
   後生は罪深くや御しまさむずらむ」と、
  皆思ひけるに、
  御行ひ緩む事無く貴くして、
  「現に極楽に往生し給ひぬらむ」とて、
  入道の中将も、最後に参り会て、喜び貴ばれける

この中将だが、致平親王(村上天皇第三皇子)の子で左大臣 藤原道長の猶子となった源成信[979年-n.a.]とすぐにわかるらしい。
"照る中将"と呼ばれる美男で、「枕草子」によれば、度々定子を訪問しているお方。定子逝去の1001年、若くして三井寺に出家したので、センセーションを巻き起こしたと伝わる。
定子や選子のサロンが風前の灯火状態になったので、俗生活に未練もなくなってしまったということか。時間的にはズレを感じるが、そのような意味あいで、登場していると見て間違いないだろう。

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