→INDEX ■■■ 今昔物語集の由来 [2020.6.8] ■■■ [344] 三宝加護奇譚 【本朝仏法部】巻十九本朝 付仏法(俗人出家談 奇異譚) 《35〜44三宝加護奇譚》 ただ、どれにしても、こんなことがあるだろうかと思うほど稀なことではあるが、考えて見ればどれもありえそうなこと。 三宝(仏法僧)に係るご霊験ではあるものの、心に沁みる体験という訳ではないかも知れぬと云うところか。 つまり、なんだかわかるが運が良かっただけとも言えそうな事象であっても、実は、そこに信仰があったからという主張が流れているとも言えよう。 と言うか、本朝は、もともと神仏のお救けを願う社会だから、よくある話も収録しておいただけと言えなくもない。 ざっと見ておこう。 このグループの最初の譚では、登場人物が「此れ他に非ず。薬師寺の三宝の助け給ふ也。」と語り、ご教訓でも"三宝の加護有れば、自然ら此くぞ有ける"とされており、そこらがテーマなのだろう。 ●[巻十九#35]薬師寺最勝会勅使捕盗人語 弁 源某は勅使として薬師寺最勝会へ。 その帰途、奈良坂で盗賊に襲われた。 弁は従者の老侍 久某に 峠に登って盗人に言うように申し付ける。 「盗人も人の物を責て欲りすれば、者の心は知たら 公けの御言を奉て、御祈の使として、 日来薬師寺の大会行ひて、今日内へ返り参り給ふ。 公の御使の衣櫃取ては、汝等は吉き事有てむや。 其の心を得て、汝等取るべき也。」 これを聞いて、盗人達は返さねばとなり、 それに逆らう男は落馬して腰を折り立ち上がれなくなった。 そんなことで、ほとんど力なき老侍が賊魁を捕え 盗まれた衣櫃も取り返したのである。 弁は、検非違使に付き出すことをせずに、賊魁を赦免し 上京の途に。 続いて類似譚。 ●[巻十九#36]薬師寺舞人玉手公近値盗人存命語 薬師寺の右兵衛の尉 玉手公近は年来舞人として奉公。 若い時から仏を唱えていたし、魚鳥肉を食うこともしなかった。 用事で、子を連れて、上京し 奈良坂を通ろうとすると盗人に襲われた。 西の谷に追われ、馬から引き下ろされ 衣を剥がれ、松の木に結わえられてしまった。 そして、盗人が射殺そうとしたので、 目を閉じ、念仏を申したのである。 丁度その時、 数多くの兵が、奈良坂を越えようとしており 西の谷で殺されそうになっていることを聞きつけ 10騎ほどが駆けつけたので 盗人はすべての物を棄てて北の谷に逃げ去った。 公近父子は解放してもらうと 殺される寸前だったことを告げたので 兵達は大いに喜んだ。 人々は、「年来、念仏を唱ふるに依て、忽の難を免れぬ。況や、後世に極楽に生れむ事は疑ひ無し。」と。 ご教訓は、"仏の助け有れば、此く自然ら有ける"。 ●[巻十九#37]比叡山大智房檜皮葺語 比叡山東谷東塔の大智房の房主の内供、 4〜5人の檜皮葺人を呼んで、屋上を補修させた。 (現存しないが、"大智院"は21世天台座主 院源の住房。場所は北尾谷。) その様子を見廻わると、眠くなり、 ついつい昼寝してしまったところ、夢を見た。 房の上に金色の仏が登場。 烏帽子を被り、風が吹くので紙捻で頤に結付ている。 そして、檜皮を葺いていた。 そこで、急に目が覚めた。 早速、庭に出て屋根を見上げると そこには、そっくりの姿の翁が仕事をしていた。 奇異なことと思って呼ぶと、阿弥陀念仏を唱えていたと。 15才に職人になって以来、怠ることなく続けているとのこと。 内供は、夢の話をし、 疑いなく、極楽往生と教えた。 檜皮葺人は、手を摺り合わせて拝礼し、仕事に戻った。 覚えていないだけで、屋根葺職人のなかに変り者がおり、念仏を唱えていたのを見ていたのだろう。余程、気になっていたのだろうが、屋根葺き作業開始の指図でそれどころではなかっただけのこと。 かなり緊張していたからこそ、一段落すると眠気が襲って来たということ。 念仏は、この時代、すでに、職人レベルでも珍しくなかったことがわかる話である。 ●[巻十九#38]比叡山大鐘為風被吹辷語 比叡山東塔に高さ八尺廻りの大鐘があった。 989年8月13日に大風があり 諸々の堂舎宝塔・門々戸々が吹き倒されてしまった。 大鐘も南の谷底に吹き落とされ その途中にあった房は次々と破壊され打ち倒された。 夜半頃だったので、皆、房内で寝込んでいたが 誰一人として、怪我をしたものが居なかった。 実に稀有なこと。 「山の三宝の加護に非ずば、其の房々の人、生くべきに非ず」と、 貴ばれて礼拝対象になった。 本朝では、巨大な落石が家を直撃といった現象は珍しくない。寝ていて頭横を通り過ぎて行った実話は、探せばいくらでも見つかる。 ●[巻十九#39]美濃守侍五位遁急難存命語 美濃守に伺候する五位の侍だが、 素直な性情で、因果則を知り、 十斎日には心身精進、日々十戒遵守。18日には持斎。 年来、観音を念じ奉っていた。 その18日のこと。 美濃守の新宅造成で呼ばれたので、 持斎ではあるが、急いで駆け付けた。 まだ、建築途上なので 筵の上で俯せで文を見たりして、ご用を待っていた。 すると、足台の横に結んであった大きな材木が どういう拍子か、縄が切れ下の五位の上に落ちて来た。 頭上一撃で、頭は破れ骨折間違いなしの筈だが 烏帽子が破れたものの身体も脚にも疵ひとつ無い。 痛い所もなかったのである。 これは年来の持戒からくる霊力と、 この御縁日の観音のお助けにようもので、 実に奇異なことと。 ご教訓は、"三宝は目に見給はねども、霊験掲焉し。" 当たり所が悪いと死ぬこともあるが、逆にかすり傷一つなきということもある。 ●[巻十九#40]検非違使忠明於清水値敵存命語 検非違使 忠明が若かった頃のこと。 清水寺の崖の上に渡した橋の上で京童達と喧嘩になった。 京童達は抜刀。忠明を取り囲み殺そうとしたため 忠明も抜刀の上、御堂の方に逃げた。 ところが、御堂の東端に京童達が大勢で立ち塞がってしまい 向かって来たため、逃げ場を失った。 致し方無く、 蔀の下板戸を手で掴み取り、小脇に挟み、 前の谷へ身を踊らせ飛び降りた。 すると、蔀の下板に風に強く吹き付けたので 鳥が舞い降りる如くにゆっくりと谷底に落ちて入った。 そして、上手く、逃げ去ることができた。 京童達は谷を見下ろし、呆れかえった様子。 実は、京童達が刀で立ち向かってきた時に 忠明は、御堂の方に向かって 「観音助け給へ」と申していたのである。 窮地に陥って、これは谷へ跳びおりるしかないと、素早く決断した訳だ。板戸が凧になるかもとの考えが頭を過ったのであろう。それが、ズバリ的中。下手に小細工せずに、信仰一途でリラックスして墜ちたのがよかったのだろう。 ●[巻十九#41]参清水女子落入前谷不死語 清水寺参詣の女、 幼子を抱いて御堂前の谷を覗いたところ なんのはずみか、児を落としてしまった。 為すすべもなく、 御堂の方に向て手を摺り「観音助け給へ」と唱える。 もう駄目とは思ったが、 様子をみるために迷いながら下を見ていくと 観音が大層可哀想なこととの慈悲。 露ほどの怪我もなく、 谷底の沢山の落ち葉が積もっているところに墜ちていて 臥せていたのである。 喜び、抱き取って、観音を泣く泣く礼拝した。 これは、奇跡の類とは言い難い。言葉では、皆、そう言うだけのことで、運が良かったネで終わるべき程度の出来事。 それより、何故に幼子を抱いてわざわざ谷を覗こうとしたのだろうか。世の中には、色々な人が居り、他人の考えは分からないのである。当の、本人もわかっていないかも。 ●[巻十九#42]滝蔵礼堂倒数人死存命人語 長谷寺の奥の瀧藏権現は長谷寺建立以前からの地主神。 檐合せに三間の檜皮葺の屋に御祀りされていた。 正月のこと。 沢山の人が集まり、 70〜80人がその屋で経典読誦や礼拝をしていた。 その重みで谷側の柱が折れてしまい、 お堂は崩れて谷底に落ちてしまった。 大惨事となったが、 女1人、男3人、幼児4人は、谷底に落ちたものの 露ほども怪我無く生存。 幼児の高所転落で怪我無しは実はそれほど珍しいものではない。しかし、成人はそうはいかないのが普通。 落下途中でバウンドすれば、あり得ることだが。 ●[巻十九#43]貧女棄子取養女語 女御のもとで童だった女の話。 姿美麗で素敵で色っぽいので愛されていたが 長じては乳母になった。 養った子は貴い僧に。 老齢になり、道心を発し、 法華経読誦。万の講も聴聞。 そんな生活をしていて、 講に参加した時、帰途、雨が激しく降って来た。 そこで、人の家の門に立ち入って雨宿り。 そこには、荒れ果てた壺屋が立っており、 女房が泣いていた。 どうしたのか尋ねると、 年子で、子が二人いるが貧しく 一人を棄てねばならないから、と。 それなら、一人を我が養おうと言うと、 大変喜んで承諾してくれた。 家に返って考えるに、 そうは言ったものの、乳母はいないし、 子に張らぬ乳を終夜に渡って吸わせていた。 すると、 子を産み終わって25年も立つといのに、 盛りの時のように乳が張って来て、 乳もこぼれ出て来た。 お蔭で、その児を養うことができた。 普通に考えれば奇跡だが、このような話はそこここに残存している。高齢出産があるのだから、乳が出ることが物理的に不可能とは言い難いので、極めて稀でも、あり得る現象なのかも。 ただ、実態としては、自分の乳で育てた訳ではなかろう。 ●[巻十九#44]達智門棄子狗密来令飲乳語 [→狗人] (C) 2020 RandDManagement.com →HOME |