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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.7.17] ■■■
[383] 中陰法華経口誦
中陰とは、死の瞬間(死有)から後世で生を受ける(生有)までの刹那的期間を指し、幽体として存在するのだろうが、この時に、冥界に行き閻魔王の審判を受け、どこに行くかが決まることになる。
と言っても、部派仏教では、説一切有部(「大毘婆沙論」)・正量部(「三彌底部論」)が支持するものの、大衆部・分別説部は支持せず、上座部は否定している。一方、震旦の仏教では普遍的な観念。発祥はおそらく仏教以前。震旦では、これに地場信仰の集合体ともいえる道教の魂魄概念と重なったと見るのが自然だ。

その中蔭に法華経を唱えることを主題としている譚があるので見ておこう。
  【本朝仏法部】巻十三本朝 付仏法(法華経持経・読誦の功徳)
  [巻十三#29]比叡山僧明秀骸誦法花経語
 明秀は比叡山西塔に住する僧で、
 22代天台座主 暹賀僧都
[914-998年]の弟子。
 幼くして山に登り出家。師から法華経を習い、日夜読誦。
 真言密法も習い、日々怠ることなく修業。
 病気でも、身体の具合が悪くても、
 法華経一部の読誦を欠かさなかった。
 40才になり、
 道心を発し、西塔北谷の下にある黒谷の別所に籠って、
    
(西塔は5谷:北谷、南谷、東谷、南尾谷、北尾谷)
 心静かに法華経を読誦し、三時の勤行を勤めていた。
 そのうち、罹病。
 薬で治療したが、治癒せず悪化し重篤に。
 臨終を迎え、法華経を手に持ち、誓いを立てた。
 「無始の罪障が体に染みつき、
  今生で定惠の修業を欠いてしまったから
  極楽に生まれる因縁はない。
  僅かに、法華経読誦を勤めたが、
  心は乱れ、法の教えるようには、なれないでいる。
  しかし、
  この善根を善知識として、
  死後、死骸・魂・魄となって迷おうとも、
  さらに法華経を誦し、
  中有
(死後転生前)・生有(転生時)でも迷ようとしても、
  ただただ法華経を誦し、
  悪趣に堕ちようが、善所に転生しようが、
  常に法華経を誦し、
  悟りを得て、成仏できるまで
  ひたすら法華経を誦し続ける。」
 そう言い終わる
(生きている間:本有)と息が絶えた(死有)
 葬った後、
 「夜になると、常に、墓から、
  法華経を誦する声が聞こえる。」と告げられたので
 明秀の知己の人達が夜に密かに墓地に行くと、
 確かに、法華経を誦するような声が聞こえてきた。
 それは、生前の明秀の読誦声に似ていた。
 皆、大いに感じ入り、人々にそのことを話した。
 寺の人達は、皆、次々と訪れ、その声を聞いたという。
 明秀が誓った通りなので、
 大変尊い事、と人々は語り合ったのである。


この巻には閻魔王のところに行ったが、戻って、蘇生する話があり、それらはすでに取り上げた。
  [巻十三#_6]摂津国多々院持経者語📖閻魔王 📖持経者
  [巻十三#13]出羽国龍花寺妙達和尚語📖閻魔王
ただ、冥府から戻り蘇生するのは、法華経霊験譚よりは、地蔵菩薩に救われた話というのが収まりがよかろう。
そんなこともあって、閻魔王や冥官に法華経を聴聞させ、観音菩薩にお会いした上で蘇生する話だけはとばしたので、ここで眺めておこう。
  [巻十三#35]僧源尊行冥途誦法花活語
 源尊は幼い時に父母から離れ法華経授習。昼夜読誦。
 暗記しようと試みたが、できなかった。
 そのうち、まだ若い盛りというのに、重病を患い
 数日のうちに息を引き取った。
 ところが、一昼夜経つと蘇生した。
 その話によると、
  死ぬと、捕縛されて、閻魔王の役所に連行された。
  閻魔庁役人が大勢居り、
  冠を被る者、鎧を着る者、鉾を持つ者、机で札を調べ記入する者、
  色々で、恐ろしい場所だった。
  その中に、手に錫杖を持つ尊くも気高い僧が居られた。
  その僧が、経箱を持って、閻魔王に向かって言った。
  「沙門源尊は、法華経読誦を長年積んで来た。
   速やかに、席に用意し座らせるように。」と。
  そして、法華経の一巻から八巻の読誦を命ぜられた。
  読誦を始めると、閻魔王から役人達迄、合掌しながら聴聞。
  その後、僧に連れ出され、還ってくることができた。
  奇異と思い、この僧をよくよく見ると
  そのお姿は観世音菩薩だった。
  そして、おっしゃった。
  「汝は、返ったら、この経をよく読誦するように。
   力を貸し、空で唱えることが出来るようにしてあげよう。」と。
  そこで蘇生。
 聞いた人々は、大変に尊いと思った。
 その後、源尊は治癒。
 法華経一部を暗誦することが出来るようになり、
 三部暗誦を日課とした。
 うち二部は六道の衆生の為の廻向。
 残り一部が、自分の極楽往生のため。
 やがて、臨終が近づいてきてが、
 少し体調は悪くなったが、重病に罹らず
 心を乱すことなく、法華経を口誦して息を引き取った。

小生は実話ではないかと思う。
仮死状態で心拍が止まると死亡と見る人もいるが、現代的定義の脳死ではないからだ。
この状態であると、脳は低酸素状態であり、そのような場合ほとんど光が見えると言われている。音楽が聞こえる人もいるそうだ。
この場合、脳は法華経読誦で活動しており、活動復活の余地があることを示している。蘇生し、暗唱できるようになるのが、このお蔭というのも筋が通っている。

ただ、このような見方はよした方がよい。些細な知識をもとにした、習った方法論に則った"分析"だからだ。その程度の見方は、今やコンピュータでも可能なレベルでしかなく、しかも、正しいか否かの判断をしている訳ではない。
「酉陽雑俎」著者や、「今昔物語集」編纂者の凄さは、ヒトがヒトたる由縁は、こうした"合理的"分析ができることではなく、あくまでも個人的で"非合理的"である、信仰ができることにある、と看破した点にある。
そう、信仰とは、個人の生き様を規定する概念そのものなのだ。

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