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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.7.27] ■■■
[393] 無上菩薩
「今昔物語集」収録の流儀はモチーフ連続性だが、自業自得譚に続く譚はどうなっているのだろう。
  【震旦部】巻三天竺(釈迦の衆生教化〜入滅)
  [巻三#17]羅漢比丘為感報在獄語📖自業自得
  [巻三#18]駈二人羅漢弟子比丘語
そんなことを考えていて、ハッとさせられたのは、どちらにも十八変が登場していること。これは、慈恩大師窺基[撰]:「妙法蓮華經玄贊」卷十如來神力品に記載されている神通力である。
さりげなく、法華経の神髄に触れているということではなかろうか。

#18は、二人の弟子沙弥が突然十八変し、菩薩普賢三昧に入るという、実に唐突なストーリーだが、ここにこの譚のテーマが凝縮されていると言えそう。
これは、天竺に於ける法華経信仰の核を描いていると言えなくもないからだ。
本朝は法華経に傾倒しているが、震旦は金剛般若経が主流だし、天竺はすでにベーダ経典に主座をうばわれつつあった状況だから、どうしてもこの譚を入れ込みたかったのではなかろうか。

要するに、"普賢菩薩行"の話をしたかったということ。
言うまでもないが、鳩摩羅什[譯]:「妙法蓮華経」@400年の最後の巻十のこれまた終わりにくるのが[28]普賢菩薩勸發品だからだ。そして、天台智の法華三部経の結経「仏説観普賢菩薩行法経」につながるのである。内容的には、懺悔の実践的行法であり、いかにも結集時に編纂された雰囲気を醸し出す経典である。

本朝に於ける普賢菩薩霊験譚[→]とは、収録意義が違うと見た。

王城での三宝供養には、蘇・蜜は必須。
 山寺に登り、比丘を供養しようとしていた施主が
 蘇を取り忘れて来たことに気付いた。
 師である比丘の弟子に二人の沙弥が居た。
  師への奉仕は、片時も怠らず、
  菜を採み、水を汲み、薪を拾い、
  朝暮に渡り、際限なく師に使わされていた。
  ところが、その師は放逸邪見のお方で
  こき使う一方、一時の暇で慰めることもしない。
 この二人の沙弥が、忘れて来た蘇を取って来るために、出て行った。
 待っても、いつまでも顔を見せない。
 そんなことで
 施主は、沙弥達が遅れて来るのを待つため
 道に出て、草の中で見ていた。
 そうこうするうち、二人の沙弥が戻って来た。
 その途中、この二人の沙弥が突然十八変を現わした。
 そして、菩薩普賢三昧に入って、光を放って、
 法を説いて、前生の事をしめしたのである。
 施主はこれを見て、希有の事と思いをあらたにした。
 「これは羅漢の聖者である。」と考え、
 際限無きほど貴んだのである。
 そこで、師のもとに急いで戻り、この状況を話した。
 師も、これを聞いて、同じように、奇異の念におそわれた。
 丁度その時、二人の沙弥が蘇を取って還って来た。
 師は、二人の沙弥に向って、
 「我は愚痴で、知らなかったため、
  羅漢に対して、長年に渡り無礼を働いてきた。
  願わくは、この罪をお許しのほど。」と。
  沙弥は言った。
 「我等、突然、途中で神通を現わしてしまったが
  それを師はわかってしまわれたか。
  悲しいこと。
  そうなると、
  如何なる所に行って、師に鞭打ってもらうべきか。」と。
 そして泣哭し悲しんだのである。
 「師に鞭打って頂かないと、なかなか成仏できないもの。」と言い、
 光を放ち、立ちあがらずに、二人に対して説法。
 師も施主も、これを聞いて、共に、信仰を限りなき程に深めた。
 さらに、沙弥は「我等は初地に登る。」と。
 位高い、無上菩薩だった。
 凡夫の姿に変じ、人に仕われなさっていたのである。

【ご教訓】
仏に成る道、障り多し。
心有らむ人は、此れを聞て、悟るべし。

尚、"無上菩薩"だが、四菩薩に位置していると解釈すべきか。
  一 名"上行",二 名"無邊行",三 名"淨行","四 名"安立行",是四菩薩,
  於其衆中、最為上首唱導之師,  [鳩摩羅什[譯]:「妙法蓮華經」卷五15從地湧出品第十五]


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