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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.9.10] ■■■
[438] 白馬寺
白馬寺は中華帝国最古の寺院とされる一大観光地。河南洛陽 東12kmの地にあり、創建時渡来僧の墓所も付属している。
「世界大百科事典」平凡社 第2版によれば、
"後漢明帝が金人を夢にみ,使いを遣わして仏法を天竺に求めさせ,天竺より招来した仏僧摂摩騰,竺法蘭のために,67年(永平10年)に創建したと伝えられる。
寺名は外国仏寺名によったとも,仏典を白馬にのせてきたからともいう。
明帝創建は歴史事実かどうか疑わしいが,後世,仏教流伝による中国最初の仏寺と信じられ,歴代の重修を経,近年も大修築が加えられて観光の名所となっている。"


「今昔物語集」にも、当然ながら、明帝時の仏教伝来話が収録されている。
  【震旦部】巻六震旦 付仏法(仏教渡来〜流布)
    <1-10 史>
   《2仏法渡来@後漢明帝…対外道:道士術比べ》
  [巻六#_2] 震旦後漢明帝時仏法渡語

題名からみて、上記の百科事典的記載を越える事績を期待しがちだが、そのような譚ではない。
軽く、紹介した上で、細かく長々と描いているのは、反仏教道教勢力との闘い。結局、術比べで勝利したという話。

「今昔物語集」の質の高さが光る。

帝により渡来僧滞在地として創建された白馬寺では、最初の摩騰法師から始まり、以後、次々と訪れる渡来僧が経典翻訳活動に勤しみ、布教の礎となった。・・・とのイメージは抱くなとのご注意がなされていると言ってよい。
そのような活動が本格化するまで、白馬寺創建から約100年要したからである。
その辺りが見えるように、書をあたってみたい。

以下、論旨がわかりにくいかも知れぬが、本朝と違って、震旦の根には儒教があり、漢文の文章なくしては見向きもされない点を忘れないでほしい。簡単に言えば、現代の翻訳作業的な"ソグド語経典⇒漢文化"が行われたと考えては拙いのである。例えば、この様な長い連鎖とならざるを得なかった筈である。
 ソグド語経典取得⇒西域僧読誦⇒通訳者口述⇒漢僧読誦⇒筆記僧草稿化⇒漢僧読み合わせ校閲⇒語彙再調整⇒文章博士校訂⇒・・・
つまり、官僚的な組織が必要なのだ。その上、経典用語辞書も無いから、一つ一つ、語彙の意味を確認しながら、表記を"音"にするか"意"にするか決めていく必要がある。当然ながら、バラバラな土着信仰の寄せ集めでしかなかった道教から、概念思考ができる知的な道士を呼び寄せたに違いあるまい。
そこらを、以下の記述から読み取る必要がある。

小生は、「今昔物語集」編纂者は、そのような知的営為を想定して、この譚を書いたと思う。

史書とは、儒教概念の中華帝国を記載したものである。儒教的お墨付きの天命で天子となった帝とそのもとで統治に勤しむ官僚群像をメインとし、サブとして主要宗族代表人物の活動を記載した書と言ってもよいだろう。
従って、宗族第一主義と真っ向から対立する思想の仏教とは、本来的には水と油。
仏教渡来を記載する必然性などない。あったとしたら、それは、帝か宗族関係になんらかの"異常"が生じたことを意味しよう。

范曄/司馬彪:「後漢書」はこんな状況。・・・
明帝夢感応の話があるものの、求法使節天竺来たる的な記載。
  ⇒卷八十八列傳78西域傳天竺國
  世傳明帝夢見金人,長大,頂有光明,以問群臣。
  或曰:「西方有神,名曰佛,其形長丈六尺而黄金色。」
  帝於是遣使天竺,問佛道法,遂于中國画形象焉。楚王英始信其術,中國因此頗有奉其道者。
  後桓帝好神,數祀浮、老子,百姓稍有奉者,後遂轉盛

  ⇒卷二帝紀2顯宗孝明
上記西域傳に対応する明帝事績の記載は無い。
にもかかわらず、楚王の仏教・道教信仰の方は記載している。
  ⇒卷四十二列傳32光武十王3楚王英
  英少時好遊,交通賓客,晩節更喜黄老,學為浮屠(/浮圖=佛陀)齋戒祭・・・
  楚王誦黄老之微言,尚浮屠之仁祠,銀V三月,・・・

要するに、仏教はそれなりに入っておりますが、中華帝国史の一角を占めるような地位にある訳ではございません、との姿勢を示していると言ってよいだろう。
ただ、初期伝来仏教の風合いの話もあるとの見方もあるらしく、影響力は大きいが、渡来宗教が力を発揮しているとは書けなかったということかも。小生には仏教に関係している話とは思えないが。・・・
  ⇒卷三十下列傳20下郎襄楷
  (166年、天文陰陽術に長ける臣 襄楷が桓帝に"宦官專朝,政刑暴濫"を上申。)
  自陛下即位以來,頻行誅伐,梁、寇、孫、ケ,並見族滅,・・・
  今天垂盡,地吐妖,人脂u,三者並時而有河清,猶春秋麟不當見而見,孔子書之以為異也。


官僚機構は儒教的ルールに従うことを旨としているから、どうしてもこうなるのだろう。
しかし、官僚にも仏教徒が増えてくれば、史書に仏教の巻が持ち込まれることになる。
"晉世,洛中佛圖有四十二所矣。"とあるが、結構、広がっておりますという状態なのであろうか。巻末であるとはいえ、極めて例外的に史書に記載されることもある。・・・
  ⇒魏收:「魏書」卷百十四志20釋老志
  漢章帝時,楚王英喜為浮屠齋戒,遣郎中令奉黄三十匹,詣國相以贖愆。
  詔報曰:「楚王尚浮屠之仁祠,潔齋三月,與神為誓,何嫌何疑,當有悔吝。其還贖,以助伊蒲塞、桑門之盛饌。」・・・
  桓帝時,襄楷言佛陀、黄老道以諫,・・・
  自洛中構白馬寺,盛飾佛圖,畫迹甚妙,・・・


マ、どうあれ、史書ではよくわからない。「永平感夢求法」に基づく白馬寺に僧渡来というのが、メルクマールということは確かのようだが。・・・
  ⇒釋慧皎:「梁高僧傳」卷一譯經上#1漢陽白馬寺攝摩騰
  逮漢永平中,明皇帝夜夢金人飛空而至,乃大集群臣,以占所夢。
  通人傅毅奉答:「臣聞西域有神,其名曰"佛",陛下所夢,將必是乎。」
  帝以為然,即遣郎中蔡,博士弟子秦景(,王遵)等使往天竺,尋訪佛法。
  (蔡)等於彼遇見(迦葉)摩騰(和竺法蘭),乃要還漢地。
  騰誓志弘通,不憚疲苦,冒流沙,至乎邑(=洛陽)。
  明帝甚加賞接,於城西門外立精舍以處之,漢地有沙門之始也。
  但大法初傳,未有歸信,故蘊其深解,無所宣述。後少時卒於陽。
  有記云:(迦葉摩)騰譯「四十二章經」一卷,初緘在蘭臺石室第十四間中。
  (迦葉摩)騰所住處,今陽城西雍門外白馬寺是也。
  相傳云:外國國王嘗毀破諸寺,唯招提寺未及毀壞。
   夜有一白馬繞塔悲鳴,即以王,王即停壞諸寺。
   因改招提以為「白馬」。故諸寺立名多取則焉。


ここに登場する「四十二章經」だが、様々な現存版があり、なかには序文付きも。
普通は、序文には、目的意識表明とか請われた経緯がわかるようになっているものだが、この場合は「後漢書」記載事項転載臭が強い。もともとは注記にすぎず、それが次第に膨張していって序にされたようにも思える。・・・
  ⇒迦葉摩騰&竺法蘭[譯]:「四十二章經」序
  昔漢孝明皇帝夜夢見神人,身體有金色,項有日光,飛在殿前,意中欣然,甚ス之。
  明日問群臣:「此為何神也?」
  有通人傅毅曰:「臣聞天竺有得道者,號曰佛,輕舉能飛,殆將其神也。」
  於是上悟,即遣使者張騫、羽林中郎將秦景博士弟子王遵等十二人,
  至大月支國寫取佛經四十二章。

ただ、経典と言っても抄録集であり、いくら最初のご紹介版といっても、"文章命"の中華帝国的風土にそぐわない書である。
白馬寺の解説にも、この経典名は記載されていない。・・・
  ⇒楊衒之:「洛陽伽藍記」547年卷四城西 白馬寺
  漢明帝所立也。佛入中國之始。
  寺在西陽門外三里御道南。
  帝夢金神,長丈六,項背日月光明。胡人號曰佛,遣使向西域求之,乃得經像焉。
  時以白馬負經而來,因以為名。明帝崩,起祗於陵(顕節陵)上。自此以後,百姓塚上或作浮圖焉。

ここには、"經函放光"の霊威があるというだけ。箱であって経典ではない。📖経筥延伸

翻訳僧の活動は、おそらく、安(安息)世高、支(大月氏)婁迦讖[147年-n.a.] からだろう。📖鳩摩羅什
顕宗孝明帝期[在位:57-75年]より1世紀後ということになる。
  ⇒僧祐[445-518年][撰]:「出三藏記集」卷十三#1安世高傳, #2支讖傳
  出家修道博綜經藏。尤精阿毘曇學。諷持禪經。略盡其妙既而遊方弘化遍歴諸國。以漢桓帝之初。始到中夏。世高才悟幾敏一聞能達。至止未久。即通習華語。於是宣釋衆經改胡為漢。
  漢桓帝末。遊于洛陽。以靈帝光和中平之間。


もともとの仏教のお経はベーダ経典同様に、正式にはすべて口伝。ところが。中華帝国は"文章"国家であり、抄録集が最初とはとうてい思えない訳で、そういう感覚からすれば、最初の渡来経典は、使者の口述を経典化した「浮屠經」と考えるべきかも。・・・
  ⇒「隋書」卷三十五志30経籍[4]3佛經
  推尋典籍,自漢已上,中國未傳。或雲久以流布,遭秦之世,所以堙滅。其後張騫使西域,蓋聞有浮屠之教。
  哀帝時,博士弟子秦景使伊存口授「浮屠經」,中土聞之,未之信也。
  後漢明帝夜夢金人飛行殿庭,以問於朝,而傅毅以佛對。帝遣郎中蔡及秦景使天竺求之,得「佛經四十二章」及釋迦立像。並與沙門攝摩騰、竺法蘭東還。之來也,以白馬負經,因立白馬寺於洛城雍門西以處之。其經緘于蘭台石室,而又畫像於清涼台及顯節陵上。
  章帝時,楚王英以崇敬佛法聞,西域沙門,齎佛經而至者甚衆。永平中,法蘭又譯「十住經」。


ただ、「浮屠經」がどのようなものかわからない。
  ⇒魚豢:「魏略」卷二十二西戎傳 臨児國
     @陳壽:「三國志」(裴松之 註)魏書三十 烏丸鮮卑東夷傳 西戎

  (臨児國は大月氏国辺りだが、藍尼/ルンビニのようだ。)
「魏略西戎傳」曰:・・・
  臨兒國,浮屠經云其國王生浮屠。浮屠,太子也。父曰屑頭邪,母云莫邪。浮屠身服色黄,髮青如青絲,乳青毛,蛉赤如銅。始莫邪夢白象而孕,及生,從母左脅出,生而有結,墮地能行七。此國在天竺城中。天竺又有神人,名沙律。
  昔漢哀帝元壽元年[前2年],博士弟子景盧受大月氏王使伊存口受浮屠經曰復立者其人也。浮屠所載臨蒲塞、桑門,伯聞,疏問,白疏間,比丘,晨門,皆弟子號也。浮屠所載與中國老子經相出入,蓋以爲老子西出關,過西域之天竺,教胡。浮屠屬弟子別號,合有二十九,不能詳載,故略之如此。


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