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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.9.11] ■■■
[439] 呉大帝
三国志、魏曹操・呉孫権・蜀漢劉備の一角の話だが、それを示す言葉はなにもないという不可思議な譚。
  【震旦部】巻六震旦 付仏法(仏教渡来〜流布)
    <1-10 史>
   《4康僧会三蔵[n.a.-280年]》
  [巻六#_4] 康僧会三蔵至胡国行出仏舎利語
  ⇒釋慧皎:「梁高僧傳」卷一譯經上#1魏呉建業建初寺康僧會

原典とは違い、"天竺の聖人 康僧会三蔵[n.a.-280年]は、仏法を植えつけようと、震旦に渡り、胡国に入った。"となっている。
康と付くからには、西域の康居の僧だが、天竺に棲んでいた。要するに、梵文経典翻訳ができる僧ということ。(正確にはパーリ語かも。)
入震旦だから、胡国の訳がなく、行先は呉國。"漢獻末亂,避地于呉。"なので、半ばおちょくり。
従って、登場する国王名も時期も書く訳にはいかない。
実際には、大帝孫権[在位:229-252年]の治世、247年で、初の沙門渡来者とされているが、「呉志」には不掲載。
孫権との仏舎利を巡るやりとりは、細部では異なるところもあるが、ほぼ同じ。・・・
  有司奏曰:「有胡人入境,自稱沙門,容服非恒,事應驗察。」
  權曰:「昔漢明夢神,號稱為佛,彼之所事,豈其遺風耶?」
  即召會詰問:「有何靈驗?」
  會曰:「如來遷迹,忽踰千載,遺骨舍利,神曜無方,
  昔阿育王起塔,乃八萬四千。夫塔寺之興,以表遺化也。」
  權以為誇誕,
  乃謂會曰:「若能得舍利,當為造塔,如其?妄,國有常刑。」
  會請期七日,
  乃謂其屬曰:「法之興廢,在此一舉,今不至誠,後將何及。」
  乃共潔齋靖室,以銅瓶加几,燒香禮請。
  七日期畢,寂然無應,求申二七,亦復如之。
  權曰此欺誑,將欲加罪,會更請三七,權又特聽。
  會謂法屬曰:「宣尼有言:"文王既沒,文不在茲乎。"
        法靈應降,而吾等無感,何假王憲,當以誓死為期耳。」
  三七日暮,猶無所見,莫不震懼。
  既入五更,忽聞瓶中鏗然有聲,會自往視,果獲舍利。
  明旦呈權,舉朝集觀,五色光炎,照曜瓶上。
  權手自執瓶,瀉于銅盤,舍利所衝,盤即破碎。
  權大肅然,驚起而曰:「希有之瑞也。」
  會進而言曰:「舍利威神,豈直光相而已,乃劫燒之火不能焚,金剛之杵不能碎。」
  權命令試之,會更誓言:「法雲方破,蒼生仰澤,願更垂神迹,以廣示威靈。」
  乃置舍利於鐵砧上,使力者之,於是砧磓俱陷,舍利無損。
  權大嗟服,即為建塔,以始有佛寺,故號「建初寺」,因名其地為「佛陀里」。
  由是江左大法遂興。


原文はまだまだ続くが、そこには関心が薄かったのだろう。翻訳僧だが、代表経典が釈尊過去世本生譚集成の「六度集經」だからか。ただ、慈悲救苦、捨己利他と大乗的な話が多いらしいが。

思うに、「佛陀里」を記載せずに、「建初寺」だけ登場させているところを見ると、この"初"にカチンと来たのかも。洛陽に寺ができたのは遠の昔だというのに、📖白馬寺なにもご存じない無知蒙昧な国王ということになりかねないし。
そんな国の名前を書ける訳がなかろう。本朝と全く繋がりがいなら別だが。
「今昔物語集」編纂者は翻訳僧を一通り知っていたに違いないと考えれば尚更。・・・📖鳩摩羅什
┼┼【秦】
┼┼┼利房[巻六#1](非訳経)
┼┼【後漢】
┼┼┼(安息)世高
┼┼┼(大月氏)婁迦讖[147年-n.a.]
┼┼【三国-西晋代】
┼┼┼(康居)僧会[n.a.-280年][巻六#4]
┼┼┼(康居)僧鎧@洛陽 白馬寺
┼┼┼(天竺〜西域)法護/敦煌菩薩[239-316年]
┼┼┼仏図澄[232-349年](非訳経)
上記の安世高は禅修行を震旦に持ち込んだことでも知られており、桓帝代に洛陽に入り、その後、江南に移っており、それもご存じないとは思えまい。
そもそも、江南を支配し三国鼎立を実現した孫権は、普通は、聡明・仁智・雄略の傑出した英雄と評価されており、イメージが全く合わない。普通に考えれば、土着の人々を徴兵し士気を高めるためには、土着信仰の道教を重んじていた筈。
仏教が、こうした戦いに役に立つとは思っていなかったということだろう。
安世高にしても、戦乱からの疎開で江南に来たのではなかろうか。

ただ、世情が安定すれば、中枢部腐敗に土着型信仰は歯止めにならないから、仏教に大きく振ったのでは。
インターナショナル交易基盤と親和性があるのは仏教しかないし。

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