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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.9.12] ■■■
[440] 冥途報@震旦
冥界の官僚組織のドタバタ劇としか言いようがない譚を中心として、冥途報が6話連続しており、これらを"孝養"のカテゴリーに位置づけるというセンスはよくわからない。
こちらの"孝養"概念が違っているのかとも思ったりしないでもないが、一応、官僚のモットーである儒教的孝養の実態を揶揄しているお話とでもしておくか。
  【震旦部】巻九震旦 付孝養(孝子譚 冥途譚)📖震旦孝養
  <1-12, 20, 43-46「孝子伝」邦訳>
  <13-19, 21-42「冥報記」邦訳>
  《31-36冥途報(善行 v.s. 悪行)》

  [巻九#31] 震旦柳智感至冥途帰来語
  ⇒「冥報記」下53 (唐)柳智感
 貞観[627-649年]初。
 長挙
@浙江県令 河東の柳智感急死。
 翌日蘇生し経緯を語る。
 冥土に召喚され、欠員が出た判官に任命されるも、
 扶養している老親がいるので死ねないと言うと
 調べてくれ、寿命が残っているとなり、権官扱いに。
 昼は県職、夜は冥土という
 往還生活を送ることに。
 冥府で帳簿を見ることができたので
 知人に先行きを教え、修善を勧めた。
 そして3年。
 隆州の李が就任してしまったので、
 解任され、冥土に往く必要がなくなった。
 そして、現世で囚人逃亡というヘマをしてしまったが
 冥官とのコネがあるので逃走犯捕縄に成功。

この譚だけは、老いた親への思いが語られている。

  [巻九#32] 侍御史孫廻璞依冥途使錯従途帰語
  ⇒「冥報記」中20 (唐)孫迴璞
 侍御史として、九成宮行幸[639年]のお供ということで
   
(九成宮@峡西麟游:隋の仁寿宮を太宗が避暑用途で修復し改名。)
 三善谷に宿泊した。
 すると、夜中に冥府から召喚されたが、
 途中で人違いとわかり、解放された。
 ところが、魂がなかなか身体に戻れなかった。
 その17年後、勅命で、魏徴の病を治療。
 そのうち、
 鄭国公魏徴
[580−643年]が死去し、冥府の大陽都録大監に就任。
 指名を受け冥府に呼ばれたが
 僧を同行させ、
 仏事・造像・写経といった修善があるということで
 冥土行を回避できた。

魏徴は、史書的記述の世界では、諫臣の筆頭格と言えよう。そこで、冥官に採用するということで、死んだのであろう。しかし、職位は、長/次官ではなく、判官以下のようだが。
 専門職からすれば、そのようなご奉公はご勘弁の程、ということで、仏教功徳に専心という話。

  [巻九#33] 震旦大史令傅奕行冥途語
  ⇒「冥報記」逸文 唐太史令傅,本太原人。
 傅奕・仁均・薛頤は太史令だった。
 仁均は薛頤に金を貸したまま死亡。
 夢を通じて、傅奕に返金するように伝えた。
 一方、少府監馮長命は傅奕が冥途で罪っせられる夢を見た。
 傅奕は返金を受け取ると死亡。

傅仁均は、「新/舊唐書」に登場する天文学の道教系官僚。
傅奕[555-639年]は、反仏活動のための成書「高識傳」の著者。
その主張の核は、仏教とは対君不忠と対父不孝の教義であるというものらしい。不従事生産、逃避賦役、剥削百姓になるから僧の数を無闇に増やすなということでもあろう。
特に、妄求功コの姿勢と、獄中での礼仏・口誦経による免罪に対して激怒していたようだ。
慈悲を毛嫌いする中華帝国の土壌にずっぽり嵌っている人々だろう。儒教的孝行は義務であり、それに応えて恩返しが行われるという、官僚的システムを壊す輩は帝国の根幹を壊してしまうとの論理と見てよかろう。

  [巻九[#34] 震旦刑部侍郎宋行質行冥途語
  ⇒「冥報記」下50 (唐)王(附宋行質)
 仏法不信者、尚書刑部侍郎の宗行質病死。[651年]
 続いて、尚書都官令史の王も突然病死。
 王は冥府で身に覚えのない記録改竄を責められたが、
 反論が認められ無罪。
 一方、宗行質は功徳の手札がなく受苦。
 仏法を信じず、僧尼を敬わず、石仏を・瓦に用いたりしていたから。
 王は、冥官に賄賂を要求されたので、後払いを約束して生還。
 それを忘れて生活していると罹病。思い出し、送ると治癒。

生来、仏を信じておらず、毀仏の司法部次官が冥土入りということで、題名からすればそれが主人公ということになるが、話からすると、脇役としか思えない。
 しかし、儒教の孝養一途の高官は冥土で受苦ということなら、確かに主人公である。脇役は、仏教信仰のその下位の官僚で、なんとか冥土行を避けることができるのである。

  [巻九#35] 震旦抱被殺曽氏報怨語
  ⇒「冥報記」下45 (唐)康抱
殺人悪報。そして、救済。
 江南出身の抱は身分が高く幼児から文章学習得。
 兄共々、人々によく知られていた。
 613年、
(隋の将軍)揚玄感[n.a.-613年]が反乱。
  
(煬帝の第二次高句麗遠征の頓挫の原因。
   洛陽攻略を図ったが、隋軍に大敗し死亡。)

 抱の兄は、玄感の仲間ということで殺された。
 さらに、抱も殺すべきとの動きが出たので
 密かに逃亡し、帝都内で隠れた。
 年を改め、古き知人を尋ねようと、
 見つからないように秘書省に入ろうとしたところ、
 煬帝は城外なので王城の諸門が閉ざされていた。
 安上門だけは開門していたので
 恐る恐る入門すると、旧知の南人 曽に出会ってしまった。
 「我は、王城の留守役だが、汝は何所へ?」と言われ、
 知り合いなので、秘書省へと答え、そのまま別れてしまった。
 すると、曽氏の手の者に捕らえられ秘書省に連行された。
 そして、官に報
 その時、旧知の秘書省 少監 王邵が、
 この人物は抱とは違うと言い、放免させようとした。
 抱も、南方から来た労役にございますと合わせ、
 その場を逃れることができた。
 しかし、
 その報告を受けた曽氏がており、捕縛されてしまった。
 放免されないとわかり、言い放つ。
 「我、まさに、官ということで、死ぬことになる。
  死ぬ事自体は、自然の報であり、君に復讐する気は無いが
  君とは旧知の仲。
  君が我を助けず放免しない点については、何よりも恨むことになる。
  と言うことで、我が死んだ後、
  この事を思ひ知るがよい。
  必ずやその報いを受けるであろう。」と。
 それでも、曽氏は放免する気はなく殺害。
 曽氏の家は太平坊に有ったが、
 留守にしており、王城へ行く時は、
 善科里に寄っていた。
 その西門の内で、突然、抱を見かけた。
 鮮やかな衣冠姿で騎乗しており、
 青衣の従者2人を後に連れていた。
 曽氏は大変に驚き怪しんだ。ぶ事限無し。
 抱は曽氏に言い放った。
 「我は、今、太山の主簿に任ぜられた。
  君の命は、既に尽きようとしており、
  残り3年だが、我を殺したので
  天曹に請い、復讐の報として、
  君を殺すことになった。」と。
 曽氏は、頭を叩き謝罪し、際限無きほど悔ひ悲しんだ。
 そして、
 「我、君のに、追善供養を修する。」と請い願った。
 抱は復讐の念は深かったが、
 「善根を修す。」と誓願されたので、許すことに。
 忽ちにして、その姿は見えなくなった。
 その数日後、曽氏は同じ様に抱に会った。
 抱が言うには、
 「我、捕えて君を殺そうと思ったが、君を許すことにした。
  我の為に、七日、善を修すように。
  もし、そうしなければ、君の頭を取って、持去る。
  もし、この事を信じないと、
  死ぬ時、顔が背の方に向いてしまうであろう。」と。
 曽氏、恐れ迷ったものの、約束した。
 すると、抱は消えてしまった。
 曽氏は帰宅後、教えられた通りに善行。
 しかしながら、臨終の際、顔面が背に廻っていた。
 抱が言った通りだった。
 偏に、殺人のため。

官僚組織における"考"を金科玉条のように崇め祀る人間と、ヒトとして"縁"を大事に護る人間の違いを、明示した譚といえよう。
言うまでもないが、この頃から、隋は反乱続出で、あっけなく滅びていくのである。

  [巻九#36] 震旦願知冥道事語📖冥道転生確率
  ⇒「冥報記」中19 (唐)
この譚は、すでに取り上げた。上記の譚の〆というより、冥界解説に近い。

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