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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.9.24] ■■■
[452] 張騫乗槎
現代日本では、高等教育を受けていても、張騫[n.a.-前114年]という名前も耳にしたことが無い人が大多数を占めているが、昔はそうではなかった。
震旦では、良く知られているからだ。

従って、「酉陽雑俎」にも登場する。
おそらく、ソグドネットワーク経由で様々な異文化をもたらした大恩人と見ていたと思う。

その地理的カバー範囲は西蔵印度ルートが含まれているので、玄奘より圧倒的に広く、政治・経済分野の交流を追求したので、インターナショナルな多文化社会への道が生まれることになったと言えよう。特に、グルメとしては、そちらでの感謝感激が大きいかも。
  →【張騫の経路】@「酉陽雑俎」の面白さ[老子化胡経]
もっとも、社会一般的には、中華大帝国化万々歳でしかなく、その端緒となった偉大な軍官を称えようという以上ではないだろうが。

「今昔物語集」の国史では、どう扱うか見ものであるが、震旦で広く流布していたと思われる七夕伝説で満足したようである。「俊頼髄脳」で結構ということのようだ。
  【震旦部】巻十震旦 付国史(奇異譚[史書・小説])
   📖「注好選」依存 📖「俊頼髄脳」好み
  《1-8 王朝》
  [巻十#_4] 漢武帝以張騫令見天河水上語
  ⇒「俊頼髄脳」張騫
     浮木に乗った張騫は天の川の水源へ。そこで、張騫は織女・牽牛に出会う。
     地上から見ると、天の川の辺に見知らぬ星が出現していた。


国史は、大帝国化の事績を記録していく書であり、張騫とは、武帝の命により、対匈奴同盟締結提案のために大月氏へ赴った武将でしかない。それ自体は成果はなかったが、漢に西域の情報をもたらしたという点で絶大な貢献を果たしたことにハイライトを当てているのである。
しかし、大衆の気分としては、そんな細かなことはどうでもよい訳で、そこらの心情を共有しているとも言えよう。その七夕伝説の底流には、反"国史"感情が流れている点にも気をつけておく必要があろう。
司馬遷ははっきりと書いてはいないが、そこらを意識していたようだ。・・・
  ⇒司馬遷:「史記」卷百二十三列傳63大宛
  大宛之跡,見自張騫。・・・
  ・・・
  「禹本紀」言:
   「河出崑崙。
    崑崙其高二千五百餘里,日月所相避隱為光明也。
    其上有醴泉、瑤池。」
  今自張騫使大夏之後也,窮河源,惡睹本紀所謂崑崙者乎?
  故言九州山川,
  「尚書」近之矣。
  至「禹本紀」、「山海經」所有怪物,余不敢言之也。

黄河源流の崑崙山へ行ったと言うことは、西王母を訪問したということ。七夕伝説発祥の由縁を理解しており、それは古代信仰残渣集である「山海經」に繋がるもの。儒教とは相いれないが、土着の信仰はそう簡単には消滅しないのである。

ここらは、「酉陽雑俎」の著者だと、インテリの常識と考えるだろうが、「今昔物語集」編纂者はどうだったかはわからぬ。
小生は、「酉陽雑俎」を読んでいたなら、以下も知っていた筈と見るが。
  ⇒張華[撰]:「博物志」
 <卷一>
  漢使張騫渡西海,至大秦。
  西海之濱有小崑崙,高萬仞,方八百里。
  東海廣漫,未聞有渡者。
  南海短,狄未及。
  西南夷以窮,攜家渡南海,至交趾者,不絶也。
 <卷六>
  張騫使西域還,乃得胡桃種。
  徐州人謂塵土為蓬塊,呉人謂跋跌。
 <卷十>
  舊説云,天河與海通。
  近世有人居海濱者,年年八月有浮槎去來不失期。
  人有奇志,立飛閣於槎上,多齎糧,乘槎而去。
  十餘日中,猶觀星月日辰,自後芒芒忽忽,亦不覺晝夜。
  去十餘日,奄至一處,有城郭状,屋舍甚嚴,遙望宮中多織婦。
  見一丈夫牽牛渚次飲之,牽牛人乃驚問曰:「何由至此!」
  此人具説來意,并問此是何處。
  答曰:「君還至蜀郡,訪嚴君平則知之。」
  竟不上岸,因還。
  如期後至蜀,問君平,曰:「某年月日有客星犯牽牛宿,計年月,正是此人到天河時也。」


要するに、ここらがごちゃ混ぜにされたのである。・・・
 張騫、武帝の命で天の川に。
 そこで、織女・牽牛に会う。
 外界では、天の川付近に顕れた不明な星を観測することに。


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