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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.9.30] ■■■
[458] 諸行無常
諸行無常は有名な偈/伽陀gāthāで、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響き有り。」は知らぬ人無しの名文句。
しかし、「酉陽雑俎」を読む限り、震旦で口にする一番は諸惡莫作だと思われる。それに、諸行無常よりは、有為之法,其性無常の方がピンとくるのではないか。

「今昔物語集」でそのことを強く感じさせられた。

この諸行無常だが、釈尊本生譚での前半偈の頭句。
  諸行無常 是生滅法 + 生滅滅已 寂滅為樂

  大乘經 南本 慧嚴[譯]:「大般涅槃經」巻十三 聖行品下
  大乘經 北本 曇無讖[譯]:「大般涅槃經」巻十四 聖行品7-4
  小乘經 法顯[譯]:「大般涅槃經」巻下
  パーリ仏典「長部/ディーガ・ニカーヤ」大篇16
     「大般涅槃経/大パリニッバーナ経」
  ⇒源為憲:「三寳繪詞」上卷14雪山童子
  「諸行無常、是生滅法。」と云ふ音、風に聞こゆ。・・・
 鬼の云ふ、"「生滅滅已、寂滅為楽。」となむ云ふ。"と。


「今昔物語集」はこの辺りの事情をよくご存じだったようだ。

【震旦部】の頭は、始皇帝による渡来僧入獄・典籍焚書譚で、続く明帝時の仏教渡来譚でも諸行無常を示唆する話は一切ないが、【天竺部】と【本朝仏法部】では記載されているからだ。
  【天竺部】巻一天竺(釈迦降誕〜出家)
  [巻一#_1]釈迦如来人界宿給語📖釈尊誕生本生譚
 菩薩、諸天に答て宣はく、
 「当に知べし、
  諸の行は皆常ならずと云事を。
  我、今久しくせずして、此の天の宮を捨て、閻浮提に生なむず」と。


  【本朝仏法部】巻二十本朝 付仏法(天狗・狐・蛇 冥界の往還 因果応報)
  [巻二十#_1]天竺天狗聞海水音渡此朝語📖天狗
 天竺より震旦に渡ける道に、海の水一筋に、
 「諸行無常。是法滅法。生滅々已。寂滅為楽。」と鳴ければ、
 天狗、此れを聞て、大に驚て、・・・


天竺部の方は、偈の4句を記載してもよかった筈だが、避けたのだろうか。文言は同じでも、解釈は宗派によって様々だろうから。

そう思うのは、諸行無常を持ち出すなら以下について触れてもよさそうに思うから。
 一切の形成されたもの(行:サンスカーラ)は無常(アニッチャ)である。
  'All created things perish.'
 一切の形成されたものは苦(ドゥッカ)である。
  'All created things are griefs and pains.'
 一切の事物(法:ダルマ)は無我(アナッター)である。
  'All forms are unreal.'
    [「ダンマパダ(法句経)」20章 道[#277〜279]@パーリ仏典「小部」2]

「今昔物語集」編纂者のこの姿勢こそが、この様な書を成立させたいと考えた由縁の可能性もあるので、そこらについて書き留めておこう。
「酉陽雑俎」の著者や白楽天は、在家仏教徒であり、官僚としての仕事に精進していた。その一方、文芸にも全力投球し、サロンでの仲間との議論を楽しみに生きていた。社会慣習に特段逆らうことはしなかったが、様々な人々との交流ができる雰囲気をすべての場で醸成していたのは間違いない。
そんな方針の生活者からすると、上記の偈は身に染みるものだったに違いない。もっとも、色々な解釈があって実に面白いですナ、と言ったりしかねない人達だろうが。

彼らは気付いたのである。
因果の法理で世界は動いており、人間がどうこうすることはできぬという教えには、同時に、生きる上での価値観が含まれていることを。つまり、人間は因果の法理に叩きのめされる存在であり、それは「苦」以外のなにものでもないということ。これは、哲学でもなければ、思想でもなかろう。更に付け加えるなら、儒教の天命・運命論に於ける善行のお勧めとは根本的に違うのである。
結局のところ、人間社会を見つめ、洞察力を高め、自分の頭で考えて、諸惡莫作に徹するしかない、と。
それは、言葉では簡単だが、極めて困難なこと。
「今昔物語集」編纂者も同じ考えでは。

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