→INDEX ■■■ 今昔物語集の由来 [2020.10.21] ■■■ [478] 伊勢御息所の歌 せっかくだからその辺りに挑戦してみよう。 実は、全体を通して眺めた後で読むと、これはこれで、なかなかにイケル。 先ずは、「今昔物語集」編纂者撰和歌集の1番から。📖和歌集 ●[巻二十四#31]延喜御屏風伊勢御息所読和歌語 斎院の屏風に山道ゆく人ある所 伊勢 散り散らず 聞かまほしきを ふるさとの 花見て帰る 人も逢はなむ [拾遺#49] 【参考派生歌】 散り散らず 人もたづねぬ ふるさとの 露けき花に 春風ぞふく [天台]前大僧正慈円[1155-1225年] [「新古今和歌集」巻一春歌上#95] 話の中身はこんなところと、すでに触れた。📖醍醐天皇 醍醐天皇(延喜代)が皇子の御著袴料の屏風に色紙を、ということで小野道風が揮毫。ただ、処春帖の桜が映える情景で、女車という題で詠まれた歌がないので、考慮の上、伊勢御息所(藤原忠房の娘)に白羽の矢。 少将藤原伊衡が遣わされるが、その情景はまさに"いとおかし"の王朝絵巻。 醍醐天皇皇女恭子内親王賀茂斎院へ贈る屏風が似つかわしいように思われるが、それはどうでもよいこと。 どうしてこの歌が選ばれたかが重要。 それは、間違いなく "「俊頼髄脳」好み"📖→だから。 だが、考えてみれば、伊勢御息所の和歌を筆頭に持って来るのは、的確そのものと言ってよかろう。藤原公任[966-1041年][編]:「三十六人撰」の巻頭で、人麿・貫之・躬恒・伊勢が採用されているからだ。 そこから、女流を選んだということ。 そして、なんと言っても伊勢の生きざまが素晴らしいのだ。「今昔物語集」では記載していないが。・・・ 伊勢御息所[874-938年]は父が伊勢守藤原継蔭で、受領"クラス"でしかない。しかし、ピカ一の歌の才と、美貌かつ魅力的な人柄だっので大人気。 亭子院/宇多天皇の后藤原温子に仕えたので、すぐに温子の弟仲平と恋仲に。ただ、破綻。しかし、次ぎには、兄の時平。さらには、貴公子"平中"とも浮名。 そのうち、天皇の寵愛を受けて"御息所"になり、皇子を生むものの夭逝。 天皇が大内山/仁和寺に入ってしまったので、今度は、第4皇子 敦慶親王と親密になり中務を生むことに。 「小倉百人一首」#19の有名な歌は仲平との恋で生まれたもの。 難波潟 みじかき芦の ふしの間も 逢はでこの世を 過ごしてよとや [「新古今和歌集」恋一#1049] 身分違いの純情な恋を彷彿させる。その予想通り、仲平は結婚して去って行く。失意の伊勢はそこで立ち直って、自分を磨き抜いたのである。 天皇譲位時の歌も有名である。[「後撰和歌集」離別] 別るれど あひも惜しまぬ 百敷を 見ざらむことや 何かかなし 身ひとつに あらぬばかりを おしなべて 行きめぐりても などか見ざらむ そんな日々もあったものの、初恋の想いを忘れることもなかったというのが、"散り散らず"であろう。 "ふるさと"は衰微した古都ということではなく、古里の花は永遠という観念であり、仲平、時平、平中、宇多上皇、敦慶親王とすべてに先立たれて一人で静かに生きる日々と、華やかだった頃の落差に感慨深いものを覚えているということだろう。 ただ、それを歌に直接的に詠んでいないところが秀逸。 自分の才能が未だに華なのか、散ってしまったかは、山道をおいでになってご覧になった将藤原伊衡にお尋ねになって下さいませ、と詠んだのである。 そこが、「今昔物語集」編纂者がまいってしまったところ。 「古今和歌集」の恋の別れ歌だらけのなかに、"題しらず 伊勢"があるが、こちらは17番目の別途譚での収録。恋についての幼児期の作品だからだ。譚題が秀逸。 ●[巻二十四#47]伊勢御息所幼時読和歌語 七条の后 藤原温子に仕えており、そこに恋仲の、若き枇杷左大臣 藤原仲平が通って来ていた。名目的には、"忍ぶ"だがほぼ公然である。それが途絶えての歌。 人知れず 絶えなましかば わびつつも なき名ぞとだに 言はましものを [「古今和歌集」恋歌五#810] 優しい詞が並んでいるが、決定的なお別れ通知である。言葉の重複する意味を上手に盛り込む技巧を感じさせないので、本格的な作品とは言い難いがそれが逆に映えているということだろう。 ⇒源俊頼[1055-1129年]:「俊頼髄脳/俊頼朝臣無名抄/俊頼口伝集」1113年 【八】秀歌等の例📖「俊頼髄脳」好み (C) 2020 RandDManagement.com →HOME |