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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.10.23] ■■■
[480] 藤原公任の歌
「今昔物語集」編纂者撰和歌集の3・4番から。📖和歌集

藤原公任[966-1041年][編]:「三十六人撰」のせいか特別扱い。
  [巻二十四#33]公任大納言読屏風和歌語…1首
  [巻二十四#34]公任大納言於白川家読和歌語…8首

前譚は、藤原家繁栄を寿ぐ話。
藤原実資が登場するなら、有名な和歌に繋がる面白話になりそうで期待してしまうが、そうではない。📖油瓶鬼
  この世をば わが世とぞ思ふ 望月の
   虧たることも なしと思へば 藤原道長 @藤原実資[日記]「小右記」

ここは、メインゲストとして呼ばれた、歌一番の公任大納言が、詠えないともったいぶって遅れて到着し、さらにしぶるもののココ一発で決めて一同大喜びの図。
一条天皇代(999年)、上東門院(藤原道長娘 彰子12才)が入内するので、関白は、藤の花が咲き誇る屏風絵に和歌揮毫の集まりを企画。行成大納言始め、御子左大臣宇治殿・二条大臣殿、若干の上達部・殿上人が控えていたのである。
 左大臣むすめの中宮のれうにてうし侍りける屏風に 右衛門督公任
 紫の 雲とそ見ゆる 藤の花
  いかなる宿の しるしなるらむ
 [「拾遺集」巻十六 雑春]

系譜的にはこんな風。
基経[836-891年]
├┬┬┐
時平[871-909年]
仲平[875-945年]
┼┼┼忠平[880-949年]摂政-関白
┼┼┼
┼┼┼├┬┬
┼┼┼実頼[900-970年]関白
┼┼┼│〇師輔[909-960年]
┼┼┼││〇師尹[920-969年]
┼┼┼│││
┼┼┼││├─〇定時
┼┼┼│││└──〇実方[n.a.-999年 養父:済時]
┼┼┼│││┼┼┼┼└──〇朝元[n.a.-1031年]
┼┼┼││└─〇済時[941-995年]
┼┼┼│├──△安子[927-964年]…村上天皇中宮 冷泉天皇・円融天皇生母
┼┼┼│├──〇伊尹[924-972年]摂政
┼┼┼││┼┼└──〇義孝[954-974年]
┼┼┼││┼┼┼┼┼└──〇行成[972-1028年]大納言…書道三蹟
┼┼┼│├──〇兼通[925-977年]関白
┼┼┼││┼┼├──△[947-979年]…円融天皇中宮
┼┼┼││┼┼├──〇顕光[944-1021年]
┼┼┼││┼┼┼┼└──〇重家[977-n.a.年]
┼┼┼││┼┼└──〇朝光[951-995年]
┼┼┼│├──〇兼家[929-990年]
┼┼┼││┼┼├──〇道隆[953-995年]関白
┼┼┼││┼┼┼┼└──△定子[977-1001年]…一条天皇皇后
┼┼┼││┼┼└──〇道長[966-1028年]関白
┼┼┼││┼┼┼┼┼├──△彰子[985-1074年]
┼┼┼││┼┼┼┼┼├──〇頼通[992-1074年]
┼┼┼││┼┼┼┼┼└──〇教通[996-1075年]
┼┼┼││┼┼┼┼┼┼┼┼藤原公任女[1000-1024年]
┼┼┼│└──〇為光[942-992年]
┼┼┼┼┼┼├─────〇斉信[967-1035年]権大納言
┼┼┼┼┼┼└─────〇道信[972-994年]
┼┼┼├┬┬─┬┬
┼┼┼敦敏[918-947年]
┼┼┼┼頼忠[924-989年]関白
┼┼┼┼│〇斉敏[928-973年]
┼┼┼┼││述子[933-947年]…村上天皇女御
┼┼┼┼││┼┼慶子[n.a.-951年]…朱雀天皇女御
┼┼┼┼││
┼┼┼┼│├┬┬
┼┼┼┼│〇高遠[949-1013年]
┼┼┼┼┼┼実資[957-1046年]
┼┼┼┼├┬
┼┼┼┼公任[966-1041年]権大納言
┼┼┼┼┼<一条朝四納言>〇源俊賢[960-1027年源高明3男]権大納言

 北白川の山庄に、花のおもしろくさきて侍りけるを見に、人々まうできたりければ
 春きてぞ 人もとひける 山里は
  花こそ宿の あるじなりけれ
 [拾遺巻十六雑春#1015]
貴族の別邸での、典型的な桜鑑賞。本来は直系で関白に登り詰めてもよかったが、政治力に乏しかったのだろう。客人のお目当ては桜であって、自分ではないという一抹の寂しさが漂うところが肝。

 三条太政大臣みかまりてのち、月を見て。
 いにしへを 恋ふる涙に くらされて
  おぼろに見ゆる 秋の夜の月
 [詞花集巻十雑下#392]
父を偲んいると、悲しみで心が暗くなり目も見えなくなって来たということだが、歌を叩き込まれたお蔭で才が開花したことを述懐する歌でもあろう。
その背景には、月の変わらぬ姿がある。
 ありしにも あらずなりゆく 世の中に かはらぬものは 秋の夜の月
   天台座主明快[詞花集巻三秋#98]

 八月許、月雲隠れけるをよめる。
 すむとても いくよもすまじ 世の中に
  曇りがちなる 秋の夜の月
 [後拾遺巻四秋上#257]
幾夜、幾代、幾世だろうが、ずっと続くことはないのだと感慨深いものがありそう。

 十月のついたちにうへのをのこども大井河にまかりて歌よみ侍りけるによめる。
 落ち積る 紅葉を見れば 大井川
  井堰に秋も とまるなりけり
 [後拾遺巻六冬#377]
流れる水は堰で止めるといっても、水は流れ去って行く。盛んだった頃はもう戻っては来ないが、その過ぎた日々の名残は留めてくれるものなのだとしんみりの図に見える。場所から見て、姉の遵子が女御だった、円融法皇大井川遊覧に係わることは明らか。作文・和歌・管絃の三船すべてに乗船し、得意の絶頂期だったのである。

 雪ふりて侍りけるあしたむすめのもとにおくりける。
 ふる雪は 年とともにぞ 積もりける
  何れか高く なりまさるらむ
 [後拾遺巻六冬#417]
白髪化一途の老人にとっては、二条殿藤原教通の北の方となった娘が楽しみなのだろう。しかし、若死のようだ。

 (中務の宮に、八重 菊植ゑ給うて、文つくり遊びし給ひける。)
 世の中を恨みて蟄居たりける時、八重菊を見てよみ侍ける。
  おしなべて 咲く白菊は 八重八重の
  花の霜とぞ 見えわたりける
 [後拾遺巻十七雑三#982]
1044年頃との推定とのこと。情景を詠いこんだのではなく、心情を詠いこんだものが歌である。煩悩の塊である自分の気持ちの奥底を自然を描くことで表出しているからこそ価値が高いのである。

 (成信重家ら出家し侍りけるころ、左大弁行成かもとにいひつかはしける。)
    …1001年重家出家(師:寂源@園城寺)
     源成信/光少将[979年-n.a.致平親王子 猶父:道長])

 世を背く人々多く侍りける頃。
 思ひ知る 人もありける 世の中に
  何時を何時とて 過ごすなる覽
 [拾遺巻二十哀傷#1335]

 関白藤原頼通殿の大饗行はせ給ける屏風に、
   山里に紅葉見に人の来たる所を絵に書たるに、此なむ読ける。

 山里の 紅葉見にとか 思ふらむ
  散りはててこそ とふべかりけれ
 [後拾遺巻五秋下#359]
隔絶された地での閑居という訳でなく、都会から山里の自然を眺めるために大挙して出かけるという現代日本人そっくりの風潮。「古今和歌集」的風情とは相当に異なる。

公任は娘や同世代の道長に早々と先立たれ、四大納言の仲間も皆消えてしまい、若手も出家という状況のなかで考えることは多かったのだろう。山荘で、自然を慈しみ数寄屋で風流を楽しむことが一番の喜びだったのだろう。伊勢や中務との交流も、そんな生活の一部ということになろうか。

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