→INDEX ■■■ 今昔物語集の由来 [2020.10.27] ■■■ [484] 藤原義孝の歌 ●[巻二十四#39]藤原義孝朝臣死後読和歌語 両親に嘱望され愛情のもとで育った貴公子で歌人との交流が深かったようである。惜しまれる夭逝といったところ。📖系図@藤原公任の歌 結構細かいことが気になったようで、順番を正している。 〇逝去10日後、僧 賀縁[天台寺門]の夢に気分良さげに笛を吹いて登場。 母上が悲しがっておられると伝えると、その応えは歌だった。 時雨には 千草の花ぞ ちりまがふ 何ふる里の 袖ぬらすらむ [後拾遺#599] (賀縁の情報はほとんど見つからず。尚、くまのくら山寺で法師から詠めと言われた人の歌が拾遺集#381に収載されている。…身を捨てて 山に入りにし 我なれは くまのくらはむ こともおほえす) 〇逝去翌年、妹の夢に登場。 着て馴れし 衣の袖も 乾かぬに 別れし秋に なりにけるかな [後拾遺#600] 〇葬った日の夜、母の夢に登場。 病床の頃、妹に経を読み終えたいと語っていたのを忘れていたのである。 しかばかり 契りしものを 渡り川 返る程には 忘るべしやは [後拾遺#598] ただ、本人としては、愛する人のために、少しでも生き続けたいと切望していたようだ。 「小倉百人一首」#50の歌。 君がため 惜しからざりし 命さえ 長くもがなと 思ひけるかな [後拾遺#669] これを知っていると、ここにストーリーがあることに気付かされる。 太政大臣藤原伊尹と代明親王娘の間に生まれた兄弟だが、容姿端麗に育ち、益々、愛されるように。 ところが、兄挙賢は朝、弟義孝は夕と、相次いで逝去。 弟は特に仏道帰依に傾いていたので、病が重くなり助かることはあるまいとわかると、母上に葬儀をせずにと遺言。 三途の川を渡ってから、又、引き返してくるつもり、ということ。 しかし、悲嘆にくれる母を見て、周囲は葬儀を進めてしまったので、それがかなわなかったのである。 そういうことで、極楽往生譚である、鎮源:「大日本国法華経験記」下#103を引かなかったのであろう。 右近中将藤原義孝。・・・深帰仏法。・・・ 命終之間、誦方便品。気絶之後、異香満室。 同府亜将藤原高遠[949-1013年]、同在禁省。相友善矣。 義孝卒後不幾、夢、相伴宛如平生。 便詠一句詩言: 昔契蓬莱宮裏月 今遊極楽界中風 (C) 2020 RandDManagement.com →HOME |