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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.11.1] ■■■
[489] 隠岐と明石の歌
「今昔物語集」編纂者撰和歌集の14番 安倍仲麿の"唐土にて月を見て詠みける"歌📖→は「古今和歌集」巻九羈旅#406収録。良く知られるお話の詞書がついている。
 この歌は、昔 仲麿を唐土に物習はしに遣はしたりけるに、
 数多の年を経て帰りまうてこさりけるを、
 この国より又使い罷り到りけるに
 たくひてまうてきなむとていてたちけるに、
 明州といふ所の海辺にて彼の国の人むまのはなむけしけり、
 夜になりて月のいとおもしろくさしいてたりけるを見て詠める
 となむ語り伝える。


この次に収載されている小野篁の歌(#407)を、15番として取り上げている。

小野篁[802-852年]については取り上げた。📖→
838年隠岐配流、840年復帰との経歴の持ち主。

ここではそれに絡む1首ともう1首が掲載されている。
  [巻二十四#45]小野篁被流隠岐国時読和歌語
最初は隠岐配流の方。
おきのくにになかされける時に舟にのりていてたつとて、京なる人のもとにつかはしける。
 わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと
  人には告げよ 海人の釣り舟
 [古今#407]

ところが、もう1首が問題を投げかける。
羈旅では#409の題不詳歌。そこには、小野篁の名前はないのだ。
もちろん"よみ人しらす"だが、"このうたは、ある人のいはく、柿本人麿か歌なり。"とされている。ご想像がつくように、ある人とは紀貫之である。
「今昔物語集」編纂者はこの歌の作者を強引に小野篁と決めつけていることになろう。そんな証拠などあろう筈もないのに。
 ほのぼのと 明石の浦の 朝霧に
  島隠れ行く 舟をしぞ思ふ
 [古今#409]

「古今和歌集」成立は905年であり、それ以後、柿本人麿と見るのが普通になっていったと思われるが、それを受け入れたくなかったようだ。それにしても、人麿が645年頃生まれたとすれば、篁は2世紀も後の人であり、かなり反撥していたことが見てとれよう。

「今昔物語集」編纂者は「万葉集」を読んでおり、人麻呂の歌は多いものの、宮廷歌人としての作品は別だが、私的な歌を無闇に人麻呂作とする風潮に気付いたからでもあろう。そんなことはどうでもよさそうに思いがちだが、この流れの背景には、人麿を宗祖の如くに祀り上げようとの動きがあるとなれば、黙ってはいられまい。震旦の詩聖・詩仙に対抗するためにも、本朝の歌神を"皆で"作ろうという訳で、中身がある訳ではない。
実際、この運動は凄まじいものがあったようで、豊臣秀吉の時代になると、「播州明石の人丸は和歌第一の神仙」というまでに至っている。本朝の風土を考えると、おそらく、その流れは現代にまで脈々と受け継がれていよう。
「今昔物語集」編纂者に言わせれば、現代人が"ほのぼの(仄仄)"という言葉を多用するのは、ただただ人麻呂の真似をしたいから、となるだろう。そんな言葉は万葉歌人はほとんど使わなかった筈だから見てみよ、とも言いかねまい。

明石は陰陽道の地であり、小野篁こそ作者として似つかわしいという見方は確かに一理ある。
ただ、本朝の体質から見て、一顧だにされまい。それを知っていての"ガツン"であろう。サロンでは大ウケ。

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