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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.11.2] ■■■
[490] 黄昏河原町の歌
渚ゆう子の「京都慕情」と言われても、1970年リリースだから、老人の思い出の歌でしかないが、さらに、その作曲が後期高齢者好みのThe Venturesだから、正真正銘の懐かしのメロディーと言ってよいだろう。

この歌の最初にでてくるのが"黄昏の河原町"。
この地名、六条坊門[五条通]南、万里小路[柳馬場通]東にあった河原院の跡地ということ。

「今昔物語集」編纂者撰和歌集の16番も、センスはよく似たところがあり、黄昏てしまった河原院を取り上げた京都ストーリーなのだ。
  [巻二十四#46]於河原院歌読共来読和歌語

この譚には記載されていない昔の部分を、他譚から追加しておこう。

○嵯峨天皇第8皇子の左大臣源融の邸宅。
 すばらしき造作。

○逝去後、子孫が宇多院に献上。

○宇多院がお住まいに。(仙洞御所)
 源融の亡霊がでたりして。📖源融

○廃墟化。
 吸血鬼が出るほどに。📖平安京の妖怪屋敷

歌集の世界は、廃墟化まではいかない段階か。

○哀れさを見分。
 土佐から帰京した紀貫之が訪れ、歌を詠んだ。
 ここは、陸奥塩竈様の造りで、
 湖の如くに水が組み入れられた庭があった。
 河原の左大臣の身罷かりて後、彼の家にまかりてありけるに、
   塩釜といふ所の様をつくれりけるをみてよめる。

 君まさで 煙絶えにし 塩釜の
  うらさびしくも 見え渡るかな
 [古今#852]

○寺院建造。
 僧 安法君が住持しており、
 月が極めて明るく照らす冬の夜に詠んだ。
 月を見てよめる。
 天の原 空さへ冴えや 渡るらん
  氷と見ゆる 冬の夜の月
 [拾遺#242]

┼┼○融[822-895年]
┼┼├○湛…寄贈者か?
┼┼├○泊 望 副
┼┼└○昇
┼┼┼└○適
┼┼┼┼└○安法法師/趁…980年代 天王寺別当

○西台西面に大きな松の古木があり、
 その間で、安法君房来訪の歌人達が歌詠み。
 そこでの、古曾部入道能因[988-1050年]の1首。
 年経れば 河原に松は 生ひにけり
  子の日しつべき 寝屋の上かな


○又、別な時。(伏せ字)
 (善時/大江嘉言が1首。)
 河原院にてよみ侍りける。
 里人の 汲むだに今は なかるべし
  岩井の清水 水草ゐにけり
 [後拾遺#1044]

 さらに、源道済[n.a.-1019年]も1首。
 河原院の古松をよみ侍りける。
 行く末の しるしばかりに 残るべき
  松さへいたく 老いにけるかな
 [拾遺#461/後十五番歌合#5]

「小倉百人一首」#47収載の恵慶法師の歌も河原院が題材だが、採用していない。
   八重葎 茂れる宿の さびしきに
    人こそ見えね 秋は来にけり

ここが、またまた波紋を呼ぶところ。
上記の安法法師の歌の作者は、恵慶法師とされているからだ。
しかし、安法法師主催の河原院歌合で生まれた歌だから、作者ははっきりしていなくて当然ということだろう。何回かあったようだが、"冬の夜の月"、"古松"、"岩井の清水"といったお題が好まれたのだろう。どうも、冬枯れの雰囲気があり、京都の季節柄、限定的な歌人の参集の筈。一方、有名な百人一首の歌は秋だから、かなりトーンが違う。"冬の夜の月"の歌は、主催者の作としておくがよかろう程度の判断かも。
ただ、このことは、"冬の夜の月"の詠み込みは河原院歌合からか、否か、という話でもあろう。大御所は理由なく"否"で、皆、諾々と従う様子を見て、異なる見解を示したに過ぎまい。

○ますます荒れ果てた。
 松は大風で倒壊。

○(1115年には火災焼失。)

○現在は、小宅幾つかに、お堂という状況。

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