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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.11.16] ■■■
[504] 震旦般若信仰
震旦般若経霊験については、モトネタの漢文を眺めただけで、そのままほっぽらかしだったので、触れておこう。📖→

ここは、全体観をもてるようになってから読まないと、どう考えるか一番苦慮するところ。
巻七冒頭譚は難物なのである。文章自体は、モトネタ直訳調にもかかわらず、不可思議な翻訳と、おかしな時代設定をいれているから。
マ、漢文の大御所も素人でも気付く誤訳をすることがあるから、そのようなミスという見方もできるし、プロジェクトメンバーがヘンテコ素役を持ってきて、これはこれで面白いとしたと想像することも可能。そこらは、読む人の勝手である。
ただ、はっきりしているのは、かなり意図的なものであること。
と言うのは、無理矢理にグループ化するため、題名を全く異なる意味に変更しているからだ。📖般若心経

  【震旦部】巻七震旦 付仏法(大般若経・法華経の功徳/霊験譚)
  [巻七#_1]唐玄宗初供養大般若経語
  ⇒非濁[n.a.-1063年][撰述]:「三寶感應要略」中42
     大般若經最初供養感應

今昔、震旦の唐の玄宗の代に、
 玄奘三蔵、大般若経を翻訳し給ふ。

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 《[誤]唐玄宗代 ⇒ [正]高宗代》
玄奘三蔵の「大般若経」翻訳は玉華寺@玉華宮内粛成殿玄奘三蔵坊で行われたが、玄宗誕生は玄奘逝去後。

玉花寺の都維那の沙門、寂照・慶賀等、筆受たり。
玉花寺都維那沙門寂照。慶賀翻譯功畢。
 《[誤]筆受たり ⇒ [正]翻訳完成の功を慶賀》
 《[誤]沙門、寂照・慶賀 ⇒ [正]沙門、寂照》
都維那は三綱の地位名で、上座・寺主ではないが、法要指導役であり、筆記役を行うことはおよそ考えられない。加わった僧は、窺基、普光、玄則、等で、慶賀の名前は無い。
マネジメントの地位の僧が、600巻もある最長経典の僅か一部の単純作業に係わる訳もなかろうし、普通の人なら慶賀を僧名とみなすことはないだろう。

既に訳し畢ぬるを、皇帝、聞き給て、歓喜して、斎会を設て、供養し給はむとす。
以聞皇帝。經既譯畢。設齊會供養。皇帝歡喜。

竜朔三年冬十月卅日を以て嘉寿殿を荘厳して、宝幢・幡蓋・種々の供具を備ふ。皆極めて妙にして、美なる事限無し。
即龍朔三年冬十月三十日也。此日請經。從肅成殿。往嘉壽殿齊會所講讀。
663年とはっきり記載している。玄宗誕生は685年だというのに。

【ご教訓】
此れ、大般若経を供養し奉る初め也。
其の後、国挙て、此の経を恭敬供養し、受持・読誦し奉る。
必ず霊験掲焉なる事多して、于今絶えず
となむ、語り伝へたるとや。

初翻訳であるから、その経典の供養が初なのは当たり前。中華帝国として本格的に経典供養を行った印象を与えたいのかも。その場合には、本朝でもよく知られる玄宗皇帝イメージが派手でよかろうということだろうか。

次の譚は高宗の時代。
ところが、すでに、翻訳経典が存在している。時計が逆回りしている。
  [巻七#_2]唐高宗代書生書写大般若経語
 666年のこと。書生が重病に罹りたちまちのうちに死亡。
 ところが、1日2晩で蘇生。
 「死ぬと、赤い服を着た冥界の役人がやって来て、文書を示した。
  役人に付き従っていくと、大きな城の門前に着いた。
  すると、役人から、"城主は閻魔大王であり、これが召喚状。"
  と告げられた。
  畏れ、驚くしかなかった。
  我が身を見ると、右手から大光明が放たれていて、
  真っすぐ進み大王の座所に射し入っており、
  日月に勝って眩い限り。
  閻魔大王はその光明に驚き怪しんで、立ち上がって合掌。
  光源を探し、門外からなので、城外にお出ましになり
  "汝は、どのような功徳で、右手から光を放つのか?"とお尋ねに。
  "善根の覚えはございません。
   何故、光を放つか皆目分かりません。"
  と答えると、閻魔大王は戻って文書を調べて仰せになった。
  "汝は、高宗の勅命で、生前に「大般若経」10巻を書写しておる。
   右手で筆を持っていたので、そこから光明が生じたのである。"
  と喜んで語った。
  そして放免に。
  "帰路を忘れてしまいました。"と言うと、
  "光を頼りにすればよい。"とのことで
  それに従うと、やがて家が見えて来て、
  光は消え、蘇生したのです。」
 書生はそう語ると、涙を流して泣いたのである。
 その後、書生は全財産を投げ打ち、「大般若経」100巻書写。


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