■■■ 古事記を読んで 2013.12.18 ■■■

漢字2文字の諡号を眺めて

古事記の天皇名にはそれなりの意味がありそう。素人には文字が表現するイメージや、発音での意味を直感的に理解できないから残念ではあるが。
  → 「古事記の天皇名を眺めて」 (2013.12.15)

ともあれ、名称表現統一性を避けていること自体が主張である。おそらく、いくつかの呼び方から、音的にコレぞと感じたものを採択し、描きたいことに一番合いそうな漢字でそれを表現したに違いない。全体を眺めていると、そんな気がしてくる。そして、その底流には強固な歴史観がありそうと気付く訳である。
それは、太安万侶の歴史学の世界と呼ぶべきかも知れぬ。

上巻は、時間的経緯をほとんど無視した記述の印象を与えるが、それは当然だと思われる。天皇家が日本という世界をどのように認識し、どのような氏族と係わりありながら、日本列島のなかでどのように生きてきたのかを描きたいのだから。その目論見は成功していると言ってよいのではないか。どう見ても、伝承神話のオムニバスではなかろう。
そして、中巻では大和盆地を治める「大倭ヒコ」の血族が、日本列島を治めるという大原則がどのように貫徹されたかが記載されている訳だ。従って、この巻で重要なのはあくまでも地域情報と血族の系譜記載と言えよう。
そして、下巻では、そのようにして樹立された倭国政権の、「治め方」が示される。暴虐や非道とも言える治世の実情も示しながら。そこには、仏教的価値観を尊ぶ為政者の姿は全く見られないし、儒教的配慮がされているとも思えない。日本的な政治パターンとはどのようなものかがわかるように、典型例だけが厳選されて紹介されたと見てよさそう。

このように、上・中・下の3巻で分割したところも知恵の結晶である。それこそ、神話期、黎明期、古墳-大王期、・・・といった考古学的な安易な見方を真っ向から拒否する態度でもある。
そういう点で、忘れてならないのは、第33代の存在記載をして完結としている点。系図を示したいなら、なにはともあれ執筆時点まで繋げる必要がありそうなものだがその気は無いのである。しかも、最後の辺りの記載を見れば明らかだが、当時の現代史には全く興味が無いのだ。あくまでも古代史に拘る。為政者が支持して作成する「歴史書」としては、実にユニーク。正史としての記述方法にNONを突きつけているのは明らか。凄い迫力である。

このことは、我々が目にする天皇家の系譜情報記載書の執筆感覚とは相当に違うということでもある。太安万侶の独自思想に彩られている書と見なすべきものでは。現代の歴史学者が著わした大部の書物となんらかわらないと言えそう。
そういう観点で眺めながら読むと、創造性喚起の頭の体操になるのではと思わず考えてしまう。
そのためには、比較論として、系譜中心の、公的見方とはいかなるものか、少し眺めておく必要があろう。言うまでもないが、その視点で眺めて読みかねないから、それを避けるために。
それには、漢字2文字の諡号の特徴を見ておけば十分では。・・・
("代"の数字は振り方で変わるが、以下は数え方が何種か混ざっている可能性があるので、ご参考程度に。)


初代は当然ながら、「神」たるべきだろうからわかるが、それ以外で、特定の天皇のみを神とあがめる理由がよくわからない。このような発想は古事記には薄そう。少なくとも名称からは推し量れない。
この命名が、中国的発想の導入だとしたら、「神」と命名されている天皇のみが、新しい王朝を樹立したと評価されているということか。ともあれ、「神」概念が拡張された訳である。
 神武天皇[1]・・・初代
 崇神天皇[10]・・・「所知初國、御眞木」(中華皇帝認知か)
 応神天皇[15]+神功皇后・・・対外姿勢大転換
第10代の「」は意味深。超人は人々を護ってくれることもあれば、逆に祟ることもあるのだろうから、片方だけにハイライトを当てた命名には違和感を覚える。


天皇という称号を使用するなら、わざわざこのような用語をダブって使う必然性は無かろう。 「天津日高日子」の「天」とは全く異なるにもかかわらず、「天」をどうしても使用したかったのだろう。それほどの大きなインパクトを社会に与えた天皇だったということでもある。逆に言えば、この天皇の後は、古事記の描く世界は不要になったということでは。正史の系譜で十分なのである。
 天智天皇[36]・・・殷紂王の焼身自殺の携帯品天智玉」から。
 天武天皇[40]・・・周武王から。


これはどのような概念かわからぬが、まあ、特別扱いということになろうか。普通に考えれば、単に仏教的ということでしかないが。ただ、現代でも通用しそうな感覚のような気もする。古事記ではあり得そうに無い表現と言えそう。
 聖武天皇[45]


「武」は、古事記では「建」に相当する概念と見なしたいところだが、そういう訳でもなさそう。"2013.12.14"で示したが、「建」は古事記では21, 27, 28代が該当。天津日高にも見られるが、猛的というより家屋作り的表現に思える。)儒教、仏教、道教は他所からの渡来信仰であり、すんなりと入ったという訳でもなく、国家的一体感を生み出すための習合には相当に苦労したと思われる。そういう観点で天皇自らリーダーシップを発揮したという意味での「武」のようである。中央集権化力ということになろうか。
古事記では、そんな視点にはたいした価値を感じていないように映るが。と言うか、大きな流れを描きたい訳で、個別治世の素晴らしさを描こうという気はさらさら無しということ。
 神武天皇[1]
 武烈天皇[25]・・・日本書紀では悪逆非道。
 天武天皇[40]
 文武天皇[42]
 聖武天皇[45]
 桓武天皇[50]


上記の「武」とはえらくニュアンスが違うが、古事記では「若建」だからこちらの方があっていそう。
 雄略天皇[21]・・・大長谷若建

国史として記述するとなれば、それは中華帝国の知的水準より低いとされてはたまらぬから、名称もそれなりのものを用意せざるを得まい。四書五経の用字用語に習うということになろう。
603年制定の冠位十二階では、最上位は「徳」で以下、五常の「仁、義、礼、智、信」。具体的にはどういう内実かは、記載書物が無いのでわからないらしいが。この辺りの名称を見ておこう。


仏教と儒教は本来は対立する信仰だろう。根本的には相容れない筈。そうなると仏教鎮護国家での「徳」の位置付けは結構難しいかも。
なんだかネといった感じを受けるのはそんなこともあるのでは。
 懿徳天皇[4]・・・ヤマト生まれだが、木津生まれ天皇の皇子。
 仁徳天皇[16]・・・仁政話はあるが、嫉妬話もあり。
 聖徳太子(推古天皇[33]の摂政)・・・一族消滅。
 孝徳天皇[36]・・・皇太子に実権を握られ都に置き去りにされ崩御。
 称徳天皇[48]・・・孝謙天皇[46]重祚。
 文徳天皇[55]・・・藤原良房と対立し内裏に住めなかった。
 崇徳天皇[75]
 安徳天皇[81]・・・平家滅亡の際に入水した。
 顕徳(後鳥羽天皇)[82]
 順徳天皇[84]
 (元徳院)/後醍醐天皇[96]・・・北朝提案。


仁政ということなのだろうが、古事記でよう感じたなら、それは思い込みが強すぎるのではなかろうか。前天皇が抱えている高度なプロを活用したいだろうし、大土木工事貫徹のための政策を国見儀式で披瀝したという風にしか映らないのだが。それに、古事記の娶話を道徳や倫理感で見ては拙かろう。血みどろの皇位継承騒動の原因や結果なのは明らかなのだから。
 垂仁天皇[11]・・・殉死から石棺/埴輪型へ
 仁徳天皇[16]・・・民の竈の煙
 仁賢天皇[24]・・・父を殺した前天皇の皇女を后に
 淳仁天皇[47]、光仁天皇[49]、仁明天皇[54]、仁孝天皇[120]


 天智天皇[36]・・・殷紂王の焼身自殺の携帯品天智玉」から。


大和政権黎明期を作り上げたことを「孝」とするなら、「倭」のヒコたるべし。連続する6,7,8,9代を当てるのが順当だと思う。第5代は「御真津」のヒコだから妥当とは思えないのだが。
 孝昭天皇[5]、孝安天皇[6]、孝霊天皇[7]、孝元天皇[8]
 孝徳天皇[36]
 孝謙天皇[46]
 光孝天皇[58]
 仁孝天皇[120]、孝明天皇[121]


継体
継承問題だけを特に示す例外的命名。血族の後継者が消滅したため、大和朝廷大混乱と見た用語だと思われる。しかし、古事記ではそんなことを重視せず、淡々とした記述。名称も「哀本(おほと)」と、実にそっけないもの。血族維持の役目が果たせれば抹消されかねないのは自明であり、微妙な政治パランスの上で成り立つ新天皇家の誕生だったにすぎまい。中巻なら重要なお話だが、下巻であるからそれほど注目すべきものではないのでは。要するに、競合する皇位継承者を抹殺することで生まれた安定状態は結局のところその後の不安的を招くという政治パターンを示したに過ぎまい。
 継体天皇[26]・・・越前の遠縁


素人には、感覚的によくわからぬが、特別な皇位継承の場合に使う漢字らしい。傍系出自の皇位継承者であることを示しているのだそうだ。後漢の光武帝になぞられたとのこと。
 光仁天皇[49]・・・天武系→天知系への皇統移行
 光孝天皇[58]
 光厳天皇[北朝1]
 光明天皇[北朝2]
 崇光天皇[北朝3]・・・光厳天皇第一皇子
 後光厳天皇[北朝4]
 称光天皇[101]・・・「称徳→光仁」を踏まえ
 後光明天皇[110]
 光格天皇[119]


ついでながら、後世になってからの命名にも触れておこう。全体的には、古代の「地名ヒコ」発想に戻っただけである。
他に、目立つのは、接頭語の「後」か。

皇位継承問題はいつの時代も大騒動な訳だが、「後」という接頭辞を付けるのは、上皇的存在だったり、南北朝に分かれたことによるものと見たが、朝廷外勢力と対抗したことを褒め称えたような感じもする。
 後一条天皇[68]、後朱雀天皇[69]、後冷泉天皇[70]、後三条天皇[71]
 後白河天皇[77]
 後鳥羽天皇[82]
 後堀河天皇[86]、後嵯峨天皇[88]、後深草天皇[89]
 後伏見天皇[93]、後二条天皇[94]、後醍醐天皇[96]、後村上天皇[97]、後亀山天皇[99]
 後光厳天皇[北朝4]、後円融天皇[北朝5]、後小松天皇[北朝6]
 後花園天皇[102]、後土御門天皇[103]、後柏原天皇[104]、後奈良天皇[105]、
  後陽成天皇[107]、後水尾天皇[108]、後光明天皇[110]
 後桜町天皇[117]、後桃園天皇[118]


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