■■■ 太安万侶史観を探る 2014.2.14 ■■■


八百萬神祭の開始

神話の話で、ついつい、寄り道してしまった。
  → 「古事記の神話的見方の例」 [2014.2.11]
こんなことを書きたくなってしまったのは、スサノヲの「神話」話は冒頭から納得し難い点があるからでもある。ここに正面から向き合うべしである。さすれば、太安万侶史観が見えてくる。

神話紹介では、母親を慕う幼児性の主人公として記載されるのが普通。これを「常識」としている解説書だらけのようだが、これは古事記の記載とは真っ向から対立する見方であることにご注意あれ。
単独の禊行為によって、父親から生まれたのだから、スサノヲには母親は存在しないのである。しかも、父母の間には、深い溝というか、対立感情しかなく、絶交したとされている。
にもかかわらず、何故に、血族ではない、実父の妻を慕うのか。その「穢れ」が自分の発祥元ということなら、同じように「穢れ」を出自とする、姉のアマテラスはどうしてそんなことを全く気にしないのか。なかなか理解しがたいものがあろう。

ところが、史書とし見れば、言わんとすることは、おぼろげながらに見えてくる。
ということで、古事記上巻【第7期】である。

訳もわからぬ殺戮を平然と行う黄泉の国集団の思想を振り切り、定式化した祭祀を執り行う社会へと歩を進めたのがイザナギ。経済も発展し、次第にそのような文化が日本列島に広がったとはいうものの、黄泉の国的攻撃的な勢力は依然として力を持っていた。
交流を旨とする海人と違って、地域閉鎖的で、極めて暴力的な、それぞれの村落土着集団はそう簡単にイザナギ型祭祀文化には馴染めなかった訳である。従って、それに対して異常とも言えそうな反撥を示して当然。旧文化の巻き返しの動きが活発化してきたのである。

ここで、敢えて大胆な推測を書き留めておこう。・・・
そのような文化を際立たせる風習とは、周囲の部族を突然襲撃し大量拉致後に殺戮を行う「宗教行事」だった可能性が高かろう。自分達の村落にしか通用しない「神」に生贄を捧げる「血祭」を最重要儀式と位置付けている訳である。極めて非生産的な行為であるが、その慣習から抜け出すことは容易なことではない。新文化とは、「血」や「死」に係わることは穢れであり、神霊の活動を妨げる最悪のこととされたので、両者は水と油である。

スサノヲは、最高神かつ実父から、海原を越えた規範を作るように命じられたがそれを拒否。過去のオドロオドロシイ風習に戻りたいと大騒ぎしたのである。そのお陰で、日本列島全体に、それこそ草のレベルに至るまで、「血」のような穢れを嫌う新文化など唾棄すべきものとのムードが満ちみちてしまった。

一方、葦原ノ中ッ國生まれのアマテラスは、大御~たる親の詔に従い、育成してきた文化を先進の地である高天原に持ち込み、着々と統治を進めていた。
そこに、葦原ノ中ッ国を追放されたスサノヲが来訪する。武力一本槍の総帥が、祭祀による安定した社会を目指す文化圏に登場するのであるから穏やかな話ではない。進出に対しては、武力対決の姿勢を見せるしかなかろう。
ところが、一触即発的ムードのなかで、スサノヲは戦乱を避ける。思想が全く違う社会の同居の道を選んだのである。

そして、その選択が嘘偽りでないことを確認するため、誓約が行われる。この祭祀は、旧文化も新文化も信奉していたからである。
互いに装着していた聖なるものを交換し、神を生むことになる。モノから成った神だが、それぞれの血族扱いになる。天皇家の系譜上の祖先たる男神は、天照大御~自ら、吾が子と見なす。一方、女神は、アマテラスによって汝の子と見なされた訳である。すべての御子は速須佐之男ノ命の正統な血族とされた訳である。
ともあれ、重要なのは、武装闘争一本槍的と思いきや、その勢力から文化的共存の流れが生まれたという点だろう。その土台は、誓約的婚姻儀式である。

にもかかわらず、スサノヲは高天原で暴虐行為を続ける。田圃での生産活動や、機織に関与する重要な儀式の妨害行為まで行われる。
この場面、神話解説では、スサノウは度を越した嫌がらせ行為で勝ち誇り、それをアマテラスが寛容の心で許したとなる。しかし、古事記の記載では、アマテラスがそういった行為を、旧文化のものと見なしているのだから、そのまま受け止めるべきだろう。しかし、新文化の重要な祭祀行為である機織を穢す行為となれば、それは一線を越えている。もはや共存は不可能。

ということで、ついに天照大御神が岩戸内に閉じこもる。この結果、とんでもない影響がもたらされるのである。高天原から葦原ノ中ッ國まで、すべての経済活動がどん底状態へ。
そこから脱出すべく画策されたのが、「祭」である。姿を隠す神を、表に出すためのエンタテインメント型の集団祭祀を考案したことになる。参加者はそれぞれの社会的役割に応じて、儀式の各パートを受け持つことになる。

この宗教儀式が極めて重要なのは、それを宗教的に指導したのが、隠れてしまったとされる別天~の高御産巣日ノ~の子(思金ノ~)という点。当座の問題解決措置ではなく、形而上の深い意味がある祭祀として位置付けられていることを意味するからだ。
しかし、深い思想といっても、教義があったようにも見えず、事実上、催行するイベント手順というか、儀式に必要な仕掛けとその様式を教えたに過ぎない。それぞれが何を意味するかは秘匿されているのである。従って、表面上は、単に、すべての関係者を巻き込む「御祭」を挙行し、一体感醸成というだけのもの。担当者にはそれぞれの役割が割り振られるものの、任命権的なヒエラルキーに基づいている訳ではない。
そのような日常的枠組みではなく、互いに開放的になることのための道具を用意することに意味がありそう。その場に、誰もが参加でき、皆が大いに喜ぶことができるように取り計らう訳だ。従って、必要とあらば、日常行為としてはおよそ馬鹿げたことも行うことになる。「八百萬の~共に咲ひき」こそに意義がある。

そんな祭が成功裏に進んだため、天照大御神は隠れていられなくなったのである。
新たな宗教が確立したと言ってもよかろう。それは、天照大御神が主神ではあるものの、参集者全員が多いに喜び合うことで、大御神とともに活気ある世界を作るというもの。主神は、単に参集者を見守るだけであり、このコミュニティの象徴以上の役割は期待されていない。

そして、スサノヲは髭と手足の爪を切られ、先進文化圏の高天原から放逐される。黄泉の国に行くのではなく、葦原ノ中ッ國に降りる。

その過程で、重要な指摘がなされている。
先進文化圏との食文化の違いでスサノヲが立腹するのである。結果、食物の神、大氣都比賣(粟の国名称と字は違うが音は同じ)を殺めてしまう。食事や食べ物における文化的な溝は極めて深いのである。
海外には類似神話があるとの指摘だらけだが、反吐や糞が料理となる話が本当にあるのか、はっきり書いたものが見当たらない。糞尿が鉱石になるのと一緒に考えるのは度を越した類似性検証と言わざるをえまい。葦原ノ中ッ國では、ヒトの便を家畜豚や犬の餌とする風習は受け入れ難いことを示したとも言えそう。

そうそう、これは葦原ノ中ッ國での事件ではない。これを無視した見方は受け入れ難い。なにせ、高天原では、すでに畦道があるような田圃での耕作が行われていたのである。馬も存在し、高度な織物が作られている。従って、この事績が作物創造神話である訳がなかろう。(しかも、スサノヲは葦原ノ中ッ國にその種を持参しなかったようである。)
要するに、優れた品種の開発が始まったということ。
 頭・・・
 目・・・稲種
 耳・・・粟
 鼻・・・小豆
 陰・・・麥
 尻・・・大豆
(尻から「大豆」という点は、いかにも日本的。大陸では、大豆の臭気はほとんど気にしていないからだ。麦は尿道ではなく、陰である。目と耳は2ツあり、いかにも2種類あることを示唆していそうなのも秀逸。)
ここで、お隠れになった筈の別天~が関与してくる。~産巣日御祖ノ命が「これを取らしめて。種と成したまひき。
この時点では、スサノヲは、種に無関心だったことを意味ていそう。葦原ノ中ッ國は、品種選定に注力できるような雰囲気ではなかった訳だ。

(使用テキスト)
旧版岩波文庫 校注:幸田成友 1951---底本は「古訓古事記」(本居宣長)
新編日本古典文学全集 小学館 校注:山口佳紀/神野志隆光 1997

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