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■■■ 太安万侶史観を探る 2014.7.2 ■■■


高千穂峰降臨の見方 (3)

高地盆地稲作部族が降臨したと推定したが、ついでにその本貫地も考えてみたい。

中国大陸では遺跡発掘が進んでおり、その暦年代から、稲作は長江中流域で始まったと考えられえるようになった。

特に、浙江省河姆渡遺跡が有名だ。
稲の野生種と栽培種の同居状態と判断されたから、ここぞ稲作の原点と騒がれたから。しかし、そこは超大河川の下流域。洪水もありえる厄介な場所だから、大規模治水技術が生まれてからの話であろう。従って、稲作の最古の地点の筈がなかろう。

最古の姿を留めていそうなのは、湖南省道県玉蟾岩遺跡。揚子江中流へと注ぐ支流の末端の地である。そこはカルスト盆地。もっとも、出土といっても米粒発見程度のようで、なんともというところなのかも。しかし、場所が場所だけに、ココら辺りが発祥との主張は説得力がある。・・・熱帯ジャポニカ種の気候的極限地だろうから、栽培種化が進められる必然性がある訳だから。

もちろん、中流では洞庭湖際の陽平原(湖南省常徳市県)でも、巨大な稲作の跡が残っている。(大坪郷彭頭山/夢渓郷八十遺跡と、城頭山遺跡)

それよりかなり下流の、江西省東北の万年県仙人洞/吊桶環遺跡もえらく古そう。長江の流れから100Kmほど南に位置するが、丘陵地帯の小さな盆地のようである。ここの出土品が世界最古の土器という見方もある位だから。しかも、縄文がついている。

これからも発見はありそうだが、これらだけでも、状況はかなりわかる。
灌漑と洪水対策の容易さで判断すれば、稲作が勃興した順番は、(1) 高地の支流が流れる狭い盆地 → (2) 大河川の中流の平原地域 → (3) 大規模治水工事がなされた下流デルタ域、と想定がつく。
この3つは栽培スキルが異なるし、灌漑や洪水対策の質が変わってくるので、統治の仕組みも大きく違ってこよう。にもかかわらず、すべてを一括して、稲作と考えてしまうのは難アリ。

古事記が示す原初的文化のイメージは、「葦原」だが、丘陵地帯の盆地生活との親近性はかなり高いのではなかろうか。池の岸辺の湿地には、必ずといってよいほどアシが生えるからだ。稲作部族にしてみれば、そんな土地とは、まさに金の卵そのもの。
だからこそ、南九州から、なんとしても倭の本場ともいえる、大和盆地を目指さねばと決意したと見ることもできるのでは。

さて、肝心の高千穂峡辺りの盆地だが、その辺りの植生を考えてみよう。
日本列島は照葉樹林の地とされているが、それをもう少し緻密に見ようというだけの話。

照葉樹林とは、表面に蝋を塗ったように光る葉を持つ常緑広葉樹を意味するが、当然ながら高地になるとその勢いは弱くなり、針葉樹に変わっていく。
高千穂峰の高度を考えると、常緑広葉樹の樫(カシ)の林から針葉樹の栂(ツガ)の林に変わる手前ではなかろうか。こうした見立てが結構重要だと思う。
中国の初期の稲作地もそのような植生の変わり目辺りと睨んでいるからだが。野生種を栽培種に変える要ありの地ということで。

日本で注目すべきは祭祀用樹木かも。
日本で広く使われているのは、榊(サカキ)と佛(シキミ)。常緑広葉樹ではあるが、針葉樹の栂と同居していることが多い。つまり、植生の変わり目に多い木。
尚、高千穂の町木は、招霊木(オガタマノキ)で、榊や佛ではない。しかしながら、この木には芳香性があり、熱帯性を感じさせる低地に分布する木だと思う。南西諸島から鹿児島沿岸に多いと思われる。
   「南伝花香木」 [2014.6.5]

もっとも鹿児島南端は南西諸島と似た例外的植生だった可能性もなきにしもあらず。それこそ、竜宮城との表現は、マングローブとオヒルギ/メヒルギの地域を通るから異郷感がつのっておかしくない。

そういう観点では、九州東側は浅海で湿地帯が広がっていただろうから、さっぱり魅力的ではなかったということか。まあ、歴史時代に入ってしまうと、そんな見方は失せてしまうが。

宮崎から鹿児島にかけての九州西側にしても、河口辺りを覗けば、砂礫海岸や岩の急斜面が多そう。低木はあろうが、風が強くとても農耕できるような場所ではなかろう。
その奥の、丘陵というか、低い山がちの一帯が、山林として利用可能な地域となろうか。ここらが、伊豆や房総半島南端までつながる、南太平洋的な植生と考えるべきだろう。ヒトというか、隼人文化が残る領域はココ。
(シイ)と椨(タブ)/楠(クスノキ)が見られる地帯である。潮風に比較的強い樹種が含まれているから、高千穂峡の植生とは一線を画すのでは。

ついでながら、ウガヤフキアエズ尊と命名される位、豊玉毘売の出産にまつわるオマジナイは珍しいものだったと見える。鵜は全世界に分布しているし、海にも川にも棲息する、そこらじゅうでみかける鳥と言ってよかろう。特に、海鵜は、小島に大群を作るから知らぬ人はいなかった筈。

ただ、国譲りが決まり、供献の儀を始めるに当たって、鵜が登場するから、特別な鳥として扱われていたのは間違いなさそう。
  (大国主神)「白而、櫛八玉神、化鵜、
  入海底、咋出底之波邇、・・・


それに、鵜飼も古くから行われていたようだし。
東征一行が宇陀郡榛原町伊那佐山に至り、戦で疲労した状態で、「吾は飢えた。"島ツ鳥"、鵜養の伴よ、今 助けに来よ。」と詠んだ歌謡が掲載されているほど。
吉野河尻で出会った漁師を指すのだと思われるが、鵜漁はしていなかったものの、阿陀の鵜養の祖とされている。

この鵜飼だが、朝鮮半島や沖縄-台湾では行われていないと言われている。しかし、大陸では、縄無し漁法(@雲南-海、広西-桂林江)がほぼ観光業的に残っているが、他の地域でも行われていた模様。昔は洞庭湖辺りが中心だった可能性を感じさせる状況。日本より新しく始まったようだが、日中のどちらにしても効率的な漁業とはとても思えない。にもかかわらず、家業的な専業者が営々と伝統を守ってきたのだろうから、その昔は、鵜を飼うことに、特別な意味があったに違いない。
日本の場合、海神族の安産祈願用羽毛採取のために鵜を大切に扱ってきたようには見えないが、大事に飼う習慣だけは受け継いだということではないか。

大陸と九州南部とは直接つながるパイプがあったのは間違いなさそうで、それは海鵜を大切にする部族が管理していたということか。そうだとすると、薩摩半島の南端、西端、錦江湾内の3拠点に壮大な都市があってもおかしくない。考古学的にはその辺りはどうなっているのだろうか。

(参考) Gong ZiTong, et., al.:"The temporal and spatial distribution of ancient rice in China and its implications " Chinese Science Bulletin, April 2007, vol.52. No.8: 1071-1079 [邦訳:中国における古代稲の時空的分布とその意義 肥料科学,第34号,93〜108 2012]
(使用テキスト) 新編日本古典文学全集 小学館 校注:山口佳紀/神野志隆光 1997


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