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■■■ 古事記の歴史観 [2018.11.12] ■■■
山の辺の道時代(盆地内)

葛城〜金剛〜巨勢時代の次は、突然、大規模古墳が出現する頃。
10〜12代の山の辺の道三輪山〜巻向山〜柳本時代[→]に当たる。
長谷の渓谷を源に西に流れ、盆地に入ると三輪山山麓に沿って北上し、石上辺りで西に向きを変えて大和川となり支流を集めて盆地を中央を突っ切って、山渓から盆地外に流出する。この南北流の東の山側は古墳が乱立。南には、律令国家になって規格化されて天皇の八角形状の御陵があり、総勢磁器は様々だが、ザッと見ると状況はだいたいわかる。
このなかで大きな古墳は、前方後円墳の出現期のもの。10〜12代の時代である。

奈良盆地すべての一覧で見るとよいのだが、ゴチャつくのでこの地域だけにしている。と言うのは、出現期、古墳前期の早い時期の大型古墳はここに示されている古墳だけなのである。

三輪勢力の王朝が生まれたと見るよりは、大和川王朝が樹立されて山の辺の道辺りを中枢地域に設定したと考えた方がよいと思う。盆地のバラバラだった部族が、天皇直系と係累の豪族の連合体として、一つにまとまったということ。

こんな具合。・・・

【奈良盆地東側山麓】
《添/曽布地域の東端》
〇若草山山頂
  鶯塚103m🈭
〇高畑
  吉備塚/[伝]真備墓20m
●櫟本
  東大寺山140m🈜
  赤土山106m🈜
《山の辺の道(石上〜三輪)/初瀬川南北流東山麓》
○石上 豊田丘陵
  ウワナリ塚110m🈝
  石上大塚107m🈝
●杣之内
  西山183m[前方後方下層前方後円上層]🈜
  小墓92m🈝
  西乗鞍120m🈝
  東乗鞍75m🈝
●大和
  西殿塚234m▲△🈠
  東殿塚175m🈜
  クラ塚144m[円]
  波多子塚140m🈜
  矢ハギ120m[円]
  栗塚120m
  中山大塚120m🈠
  下池山120m[前方後方]
  西山塚120m🈝
  フサギ塚110m[前方後方]
  馬口山110m🈜
  燈籠山105m🈜
●柳本
  櫛山150m[双方中円]
  渋谷向山302m▲▲=山邊之道上◇12🈜
  行燈山242m▲△=山邊道勾之岡上◇10🈜
   北アンド山120m
  上の山144m[円]
  黒塚128m🈠
  大和天神山113m
  石名塚111m🈜
  柳本大塚94m🈠
〇穴師丘@巻向山
  珠城山53m
●纒向/巻向
  箸墓276m▲▲🈠
  纒向勝山110m🈜
  東田大塚110m🈜
  纒向矢塚96m🈜
  纒向石塚96m🈠
  ホケノ山80m🈜
〇三輪山
  茅原大墓86m[帆立貝]
《初瀬川長谷域東西流以南》
〇忍坂
  段ノ塚105m[八角]◇34…古事記最終代の皇位継承🈗
●鳥見山
  メスリ山230m▲△🈜
  桜井茶臼山/外山茶臼山208m🈠
  赤坂天王山50m[方]
  文殊院西30m[円]

実際、以下に示す奈良盆地の他地域には、古墳造成時代の初期の大型前方後円墳は全く見られない。
【奈良盆地南南西奥】
●明日香
【奈良盆地中央低地】
○田原本
●大和八木
●畝傍山〜橿原
【奈良盆地北側】《添/曽布地域》
●佐紀
【奈良盆地西側】
〇斑鳩
〇王子
●馬見
●生駒斑鳩
〇香芝
●御所
〇葛城

ところが、奈良盆地外には初期の古墳が存在する。葛城〜金剛〜巨勢時代に確立した、盆地内と外の政治的二重構造がそのまま引き継がれていることになろう。
但し、石川合流点の東は、おそらく葛城地区の勢力であり、そこは例外的地区だったのだと思う。この時期、この下流側の古市には大型古墳は造成されなかったのである。

【奈良盆地外 大和川流域】
《石川との合流点東南》
○柏原
  玉手山7号/後山110m🈜
  玉手山1号107m🈜
  玉手山3号/勝負山95m🈜
《石川との合流点西南》
●古市

素人にも納得できる状況と言えよう。

古墳の造成地は、初瀬川への緩やかな水路を構築するのに絶好な海抜80m程度の山麓地。古墳造成は大量の土砂の移動工事であり、水稲耕作に最適な平坦で広い人工扇状地を形成する作業にもなるからだ。つまり、農業用水確保と洪水対策を兼ねた農閑期のプロジェクトとしては、その後の実利は大きいものとなる。奈良盆地内の労働力を一ヶ所に集め、毎年の進捗ステップを明確に定義し、一気呵成に仕上げたと見てよいのではなかろうか。
(こんな風に考えると、前方後円墳の形状は信仰から来たものではなさそう。大規模な円墳造成を目論んだ結果にすぎないのでは。
そう思うのは、玄室を埋めた丘構造ではなく、盛り土の頂上に棺収容場所を構築する様式だから。高さがある円墳造成のためにはどうしても工事の都合上"円+方"で進めることになる。"円"にあくまでもこだわり、"方"の大量の土砂を移動させる意味は薄いから、"方"に意味付けして残したのではないか。円墳方墳合体もありうるし、生前の祭祀場とした可能性もあろう。そもそも、「古事記」上巻に死者を尊崇する意識は全く感じられないし、どちらかといえば穢れであり、祟りのイメージしかなく、墳墓の形態は除邪効果で決まっていた筈だし。従って、大型化とは渡来思想の影響と見てもよかろう。そこで、中華思想の天帝を彷彿させる"円+方"の日本的導入と思ってしまったが、それは間違いだった。古墳群を見ると、方位感覚は無く、てんでバラバラ。太陽や北極星を意識していないのは明らか。天皇陵が八角になるのは、律令国家になってからなのである。土木工事の都合で、方向が決まったか、祖の山の方角を取り入れたかのどちらかだろう。)


巨大古墳造成は経済力の飛躍的向上を伴うものだったと考えれば、その力でさらなる鉄インゴット輸入が進むことになる。軍事力と農業生産性がさらに高まるという好循環が生まれる訳だ。

(ご注意) インターネットリソーシスの、Wikiと公的らしき組織の様々な目的の解説から引用しているが、情報そのものに矛盾点は少なくない。出典未詳が多く、情報の質はまちまちだし、著者名も記載されていないのが普通。・・・そのような情報の集成として御覧になって頂きたい。それに加えて、小生が一部改変している。
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