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■■■ 古代の都 [2018.11.5] ■■■
[時代区分:2] 10〜12代総ざらい

初代〜9代の《葛城〜金剛〜巨勢時代》に引き続いて、「古事記」中巻の10〜12代を眺めてみよう。

ここらになると、タイムラインはそれなりに見えてくる。
10代の崩御は318年であり、13代の崩御は355年だから、10代〜12代は3世紀末から4世紀初頭のことと見てよさそう。古墳調査によれば、前方後円墳の初期の形態が残っているといわれる纒向石塚古墳は3世紀半ば過ぎとされるし、柳本古墳群の渋谷向山古墳(=12代山邊之道上陵)は3世紀後半造成とされており、生前から造り始めるのだろうから、ほぼその辺りのこと。

この3代のうち10代は、"初國之御眞木天皇"と呼ばれており、この時代がエポックメーキングだったのは明らか。

記述をママ読めば、弓端之調(狩猟物納税)と手末之調(織物納税)を始めた点で評価しているようだが。もちろん、そうした財政基盤を整えていたから農業基盤整備の大土木プロジェクトも成功裏に進めることができたのであろう。

部族連合とは、ある意味、収奪のためのの軍事組織体以上ではないから、国家と呼べる体制がついに出来上がったとの見方は正当。

ただ、そのバックボーンとなった信仰にも大きな変化が生まれている点にも注意を払う必要があろう。
名前からの推定でしかないが。・・・

フルネームは 御真木入日子印恵命。敬称を「御+巻/真木(三輪の信仰シンボル)+入+日子」と解釈すれば、三輪山を統一的信仰に規定し祭祀を統一することで初めて国家を樹立した天皇ということになろう。ある意味、三輪の土着信仰に入信した日の彦と見られていたことになろう。

従って、この天皇から、宮地は三輪山山麓の南北交通路である山の辺の道筋に移る。そこらは比較的初期のものも含めた前方後円墳が多数並んでいる地でもあるから、誰にでも納得感を与える。しかし、これをどう読むかは掃討に難しい。突然にして三輪山信仰が登場するからだ。
ただ、背景的にはよくわかる。見逃していれば勝手な振る舞いをしがちな部族を集めただけの体制が長かった訳で、せっかく平定しても派遣した部族が現地に居付くと、独立の土着豪族化し、もとの木阿弥の繰り返しだからだ。その反省感に立脚し、【祭祀国家】樹立に至ったという流れは自然な感じがする。
従って、時代名称的には、コレでいきたい。

《山の辺の道三輪山〜巻向山〜柳本時代》

宮と御陵はこんな具合。
 [10]師木水垣宮
⇒[11]磯城之玉垣宮
⇒[12]纒向之日代宮
 [10]山邊道勾之岡上陵
⇒…⇒[12]山邊之道上陵

ちなみに、13代の御陵は佐紀の地である。山の辺辺りが飽和状態になったため、御陵の地を捜したということだろうか。佐紀の地にあるとされるのは以下。
 [11]菅原之御立野中陵@圏外+[11妃]
⇒…⇒[13]沙紀之多他那美陵
[14皇后]狭城楯列陵

この3代を限りに、宮地も天皇の御陵も移ってしまう。
(山の辺の道には大墳墓があり、宮地用スペースが狭かったとも思えず、どうなっていたのか気になるところだ。)

天皇の名称としてはこんな具合であり、正確には、10と11代だけがこの時代らしさを担保しているといえそう。
 [10]いにゑ
 [11]いさち
 [12]おしろ和気(=別)
小生のセンスで読めば、祭祀最優先という意味での偉贄、吉祥をもたらしたということで偉祥となる。

但し、11代に係る話でも、後代の系譜に係るものも多く、それこそが「古事記」の真髄であるとはいえ、統一祭祀形式を導入したからといって思想的に一枚岩になった訳ではなさそう。汎信教的風土が色濃い風土なので、祭政一致を図っても多神教止まりで、パンデミック退治の絶大なご利益ありとなれば最高神の力を借りる方向に一気に傾くから、その力を使って政治的統一を図ることは可能だが、問題が解決してしまうと途端にそのスキームは崩れてしまうからだ。

ある意味、国家制定の祭祀形式化を図ることで、実態としての軍事独裁による統一国家化を進めていったということにもなる。三輪山は祭祀拠点であってもよいが、宮をそこに置く訳にはいかなくなるのである。行き着く先は、"別"といういかにも家臣的名称が付く12代が進めた、倭建命による、日本国土全般の軍事的制圧しかない。祭祀は平定後の話となるから、宮、祭祀に係る御陵、信仰対象をまとめておくのは当初は威力があるにしても、合理的な仕組みとは言えなくなる。

そうならざるを得ないのは、高級難民的渡来人ラッシュが始まったからでもある。信仰的に似た点が多いと言えども、根本は異なる可能性が高く、有能な渡来人の信仰が拡がっていくと摩擦はどうしても生まれてしまう。これを抑えるには習合か、徹底管理しかありえまい。後者が無いからこそ高級難民が殺到した訳で、三輪信仰一色とは海外からの孤立化路線に他ならないから、その辺りの折衷策が生まれてくることになる。
《山の辺の道三輪山〜巻向山〜柳本時代》はあっけなく終わるのだ。
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