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■■■ 古代の都 [2018.11.24] ■■■
[00] 高千穂宮(2:日向国と薩摩国)

ご存知のように、高千穂宮比定地に関しては、説得性が薄い議論が延々と続いてきた。
観光地化が進んでいる五ケ瀬川渓谷の高千穂町と霧島連山の高千穂峰の、どちらにも伝承があるためどうにもならない訳だ。"神話世界における思想上の土地として理解したほうが穏当"と解説がなされるほどだから、熾烈な争いがあるのだろう。
もちろん、この他に北九州説も有力と紹介されることが多いし、地名アルアル説は数多く、話題にはことかかない。

確かに、「古事記」は実に厄介な記述を残した。・・・
 竺紫日向之高千穗之久士布流多氣
しかも、大陸との交通に良き地とくる。
 此地者向韓國眞來通

現代流にママ読めば筑紫国内。そこの"日向"的な地域に高千穂と呼ばれる山岳地帯があり、そのなかの山(岳)に久士布流多氣あり、となる訳。向韓國なら玄界灘沿岸部に違いないと考えるのも無理はない。

小生は、このような姿勢で「古事記」を読むなら時間の無駄と考える。歴史的情報を記載しようとの意図で書かれた書ではないからだ。全体の流れを感じ取り、古代の人々がその当時の神権政治をどうとらえていたかを読み取って欲しいという編纂者の意図に反した作業は意味が薄いからだ。

そういうことで言えば、「古事記」と対照的な書である「日本書紀」を弄り回す作業はもっと意味が薄かろう。こちらは、歴史的情報を記載した書だからだ。矛盾した伝承や訳のわからぬ話を、つじつま合わせして、"歴史"を描いた書である。当たり前だが、極めて困難な作業であり、当時の英知の結晶の素晴らしい作品と言ってよいだろう。現代人が、収録された断片情報をもとにして、それを越える書を作れる訳がなかろう。できることは、矛盾回避のために行った部分の問題性指摘や、編年体化に伴い必要となる恣意的な変更可能性程度。たが、それがわかったからといって断片的な改訂しかできかねよう。部分的に、新たなつじつま合わせ作業をすれば、それこそドツボに嵌りかねまい。もちろん、「古事記」を参考にするなど最悪。

長々と余計なご注意を書いたが、要は、「古事記」を素直に読めば、"日向"とは、東に黒潮海洋を望み水平線から朝日が昇るのが見える地と解釈する以外になかろうということ。[→]
それが、朝日之"直刺"國の意味である。原文ではこうなっている。・・・
 故 爾 詔 天津日子番能邇邇藝命
  而 離天之石位 押分天之八重多那雲
 …天のイワクラを離れ、天の八重タナ雲を押し分け
  而 伊都能知和岐知和岐弖
 …厳、道別き道別きて
  於 天浮橋 宇岐士摩理 蘇理多多斯弖
 …天の浮橋、浮島に 反り立して
  天降坐于 竺紫日向之高千穗之久士布流多氣
 :
 於是詔之
  此地者
  向韓國眞來通 笠紗之御前
  而 朝日之直刺國 夕日之日照國也
   故此地甚吉地
 詔而於底津石根宮柱布斗斯理於高天原氷椽多迦斯理而坐也


21代天皇の歌にもこれとよく似た表現があるが、こちらは"日向"ではなく"日代"である。
 纏向の日代の宮は
  朝日の日照る(比伝流)宮
  夕日の日翔ける(比賀気流)宮・・・


出雲の黄泉の国から追われるように逃れた伊邪那伎大~が到着して禊を行った地も同じことがいえそう。"橘"まで登場するのだから。・・・
 竺紫日向之橘小門之阿波岐
逃げるなら、淡路島辺りに行きそうに思うが、そうでない点がえらくひっかかる箇所である。日本海沿いに筑紫@玄界灘に渡航する理由も見当たらないし。
西の果ての冥界の地から離れ、生命復活の息吹を吹き込んでくれる東の端で黒潮の海水で綺麗サッパリという禊信仰が現れていると考えるしかないかも。

さて、そこで、高千穂の2箇所の比定地のどちらを採るかだが、その辺りについては、以前に、[太安万侶史観を探る]「高千穂峰降臨の見方」(2014.7.1)で書いたことがある。[→]
マ、早く言えば、火山灰が降り積もる水稲栽培に不向きな地よりは、小さな盆地の方を選ぶのが自然、と言った程度の論にすぎないが、そこらは今もってポイントである。耕作地云々の話ではない。3つの疑問に全く答えないで、地名アルアル、伝承アルアルを繰り返しても不毛だということ。
重要なのは、話の流れであって、断片的な情報の解釈ではない。以下の質問にまともに答えられない限りどうにもならないということ。
 何故に突然支配する必要が生まれたのか。
 出雲平定とどうかかわるのか。
 どうして南九州を選んだのか。


例えば、黒潮勢力が西方から来る脅威を感じ、瀬戸海を押さえる必要が出て、力を失った出雲勢力との連合は避けて、瀬戸海制覇を狙ったという流れを考えることもできる。南九州の南端勢力と婚姻関係を結んで連合勢力を樹立するために"高天原"から進出したという筋書き。それを示唆する話は皆無だが。
常世信仰を考えれば、黒潮勢力が船で渡来し九州南西端に降り立ち、陸路、噴火中の火山域を越えて水平線が望める西岸に下っていったと見てよさそう。

自然に考えれば、霧島山を比定地にしたいところだが、「日向国風土記」を見ると伝承があり、延岡辺りに地名も残っているから無碍に捨てることはできまい。
こちらだと、有明海沿岸に上陸し、阿蘇山を越えて入ったことになる。
「日向国風土記」逸文 知鋪郷
日向國の風土記に曰く、臼杵の郡の内、知鋪の郷、天津彦々火瓊々杵尊、天の磐座を離れ、天の八重雲を排けて、稜威の道別き道別きて、日向の高千穂の二上の峯に天降りましき。時に、空暗冥く、夜晝別かず、人物道を失ひ、物の色別け難たかりき。ここに土蜘蛛、名を大(おほくわ)・小(をくは)と曰うもの二人ありて、奏言ししく、「皇孫の尊、尊の御手以ちて、稻千穂を抜きて籾と為して、四方に投げ散らしたまはば、必ず開晴りなむ」とまおしき。
時に、大等の奏ししが如、千穂の稻を搓みて、籾と為して、投げ散らしたまひければ、即ち、天開晴り、日月照り光きき。因りて、高千穂の二上の峯と曰ひき。後の人、改めて、智鋪と號く。

[@日本古典文学大系2,岩波書店,1958]
ココの記載にどうしても注目してしまうのは、いかにも西南諸島(赤米神事伝承地)から伝来した、最初の鍬入れだけで後は粗放栽培が可能な、"熱帯"ジャポニカ米の農法をこの地の土着の人々が教えたとされていそうだから。(草取りと水量管理が不可欠な労働集約型の"温帯"ジャポニカ米ではない。)高千穂は、観光としてはいかにも渓谷だが、バスで訪れた印象からすれば、細々した谷間の扇状地でもあった。降雨量十分で夏期高温化する地なら、さえすれば、"熱帯"ジャポニカ米の適地と見ることもできよう。
高床式倉庫に稲籾を格納したに違いなく、ここが稲霊崇拝の発祥地の可能性もあろう。

尤も、もう一つの地名については、遺称地は見つからないらしい。
「日向国風土記」逸文 高日村
先師申して云わく、風土記を案ずるに、日向の國宮崎の郡。高日村自。昔者、天より降りましし神、御劍の柄を以ちて、此の地に置きたまひき。因りて劍柄の村と曰ひき。後の人、改めて高日の村と云う。云々。
但し、「日向」という地名になったのは、かなり後世のことのようだ。肥後の国 阿蘇郡の伝承にも纏向日代宮御宇天皇とあるし。
「日向国風土記」逸文 日向國號
日向の國の風土記に曰はく、纏向の日代の宮に御宇しめしし大足彦の天皇のみ世、兒湯の郡に幸し、丹裳の小野に遊びたまひて、左右に謂にたまひしく、「此の國の地形は直に扶桑に向かへり。日向と號くべし」とのりたまひき。

何時の頃かわからないし、所在地も不詳だが、韓國との交流があった話もあるから、大陸との交通路も完備していたのだろう。但し、出典から見て、上記とは全く違う系統の書なのでまぜこぜにして考えない方がよい。
「日向国風土記」逸文 韓
昔、瑳武別カサムワケと云いける人、韓國に渡りて、此の栗を採りて歸りて、植えたり。此の故に生の村とは云うなり。風土記云 俗語謂栗 為區兒 然則 韓村者 蓋 韓栗林歟云

大隅の国は、隼人の言葉についての断片しか残っていないが、薩摩の国にはもちろん伝承がある。上記、韓と出所は同じ。
「薩摩國風土記」逸文 竹屋村
風土記ノ心ニヨラバ、皇祖能忍耆命火瓊瓊杵尊、日向ノ國贈於ノ郡、高茅穗ノ生ノ峯ニ天降リマシテ、コレヨリ薩摩國閼駝ノ郡ノ竹屋村ニ遷リ給テ、土人、竹屋守ガ女ヲ娶シテ、其ノ腹ニ二人ノ男子ヲ儲ウケ給ケルトキ、彼ノ所ノ竹ヲ刀ニ作リテ、臍ノ緒ヲ截リ給ヒタリケリ。ソノ竹ハ,今モアリト云ヘリ。此ノ蹤ヲ尋ネテ。今モ斯クスルニヤ。

ここで終わると、いかにも尻切れ蜻蛉的だが、どうということはない。「風土記」を参照したなら、日向や薩摩より重要な国があるからだ。

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