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■■■ 古代の都 [2018.12.9] ■■■
[番外-9] 墓制と「古事記」
(4:"勾玉")

三内丸山遺跡@5500年前から翡翠の穴開き円盤が出土。族長シンボル的な使い方をされた様子が見られないから、一種の"おまじない品"だったのだろう。
そして、少なくとも、4500年前には勾玉が作られていたことも判明。硬玉の穴明けは細竹と砂粒で簡単に可能であることもわかり、すでにこの時代に玉造り職人が存在していたことになる。

しかも、北海道から沖縄にまで運ばれており、勾玉商人まで存在していた可能性がある。この頃の日本列島のアイデンティティは日本語と勾玉だったかも。(中国の史書で倭人勢力下とされている朝鮮半島南側でも糸魚川産翡翠が珍重されていた。)

後世に至り、定型化された前方後円墳祭祀でも勾玉は不可欠だったようで、一世風靡した訳だが、その由来は遠く縄文時代に遡る訳である。(玉作りの専門職集団が組織化され、勾玉の材質も増えた。…緑色碧玉[グリーンジャスパー]@玉造 花仙山、赤色瑪瑙/血玉髄[ブラッドストーン]@佐渡、透明水晶)

しかしながら、仏教伝来と共にその役割は急速に失せたようだ。
(後世の聖徳太子画像には勾玉を見かけるが、仏具としては、聖なる白や透明の水晶が鎮壇具として使用されるようになり、火葬墓の副葬品としても勾玉は不適とされたのであろう。)
と言っても、東大寺法華堂の3眼多臂"不空絹索観音"(奈良の外には滅多に無い仏像であり、人間道に属す。蛇と水にからむシヴァ神的。[→])の貴重な寶石が散りばめられている冠には翡翠勾玉と瑪瑙製勾玉が入っている。この辺りが最後の勾玉利用と見てよさそう。

勾玉は基本、翡翠製だが、この語彙は漢語を流用しており、大陸の「玉」とは全く違うもの。軟質と硬質の違いとの解説が多いが、それは好みの石と宝石を一括りにする考え方であり止めた方がよかろう。

大陸の「玉」は、新疆和田[ホータン]産軟玉や陝西藍田玉に代表される透閃石。しっとり感がなんともいえず美しいとされたのであろう。従って、宝石のカテゴリーに属す光の加減で曙光の緑色を感じさせる硬い勾玉とは似ても似つかぬ"石"と考えるべきだろう。
ところが、そんな"石"が、中華帝国では、"古之君子必佩玉"[「禮記」卷九玉藻]なのである。おそらく儒教の根幹に係る思想と親和性が高いが故に、中華帝国の人々にとっては垂涎の品そのもの。現代も儒教型の中華帝国そのものだから、ママ通用する文化だ。自ら認めることはないが、どう見たところで、「玉」とは帝国に於いて奴隷的地位に陥らないために、見せびらかすチャーム以外のなにものでもない。
つまり、部族長あるいは王権を示す玉斧、あるいは供犠用玉刃、が発祥であるということ。そこに天帝的な感覚が持ち込まれたから、神と媒介する聖なる石とされ、地に精気をもたらすものとされただけのこと。
大陸では、早くから社会が階層化されており、遅くても8000年前には巫女が「玉」を用いて天と交信し神通力を発揮していたと見てよかろう。(良渚文化では、円璧(天)と方琮(地)が使われていた。紅山文化では、交信主体の龍や鳳凰系。)

日本の「玉」は、南方海人由来の首飾りあるいは腰飾り(ビース的)発祥の可能性が高い。もともとは、貝殻製装飾品。(貝系では、車輪石(=大蔦葉貝)、鍬形石(=護寶螺)、石釧(=芋貝)、管玉(=角貝)で、縄文期に北海道や富山にまで運ばれている。)
貝だけでなく、鮫牙や猪牙も加わっただろうが、青/緑色への深い想いがあったため、その系統の「玉」が特別高貴品化したと思われる。
黒曜石を様々な地から発見したのだから、糸魚川での翡翠発見もそう難しくはなかった筈だし。
その色調は、光をかざすと、曙光時にかすかに輝く緑色を思わせる実に美しいものであるから、発見した瞬間に魅了されたのであろう。その色に"霊魂"を感じ取ったのかも。
弥生時代も、勾玉人気は続いたが、渡来の青色ガラスの影響もありそうで、色調は蒼的なものも好まれたようである。翡翠勾玉だけでなく、硝子製小玉や碧玉[グリーンジャスパー]/緑色凝灰岩製管玉も多用されている。
前方後円墳になると、「玉」の色彩多様化も進む。(緑・赤・青・白・透明・灰・橙・金・銀・琥珀・黒・紺・黄緑・黄)

古事記の話では「玉」は非常に重要な役割を果たしている。

伊邪那伎命は三貴子を生んで、天照大御神に「御頸珠」之玉緖を、"母由良邇"取りて"由良迦志"して、下賤。
その珠名は
 御倉板擧之神
そして、詔勅。
 所知高天原矣
一方、建速須佐之男命は"所知海原矣"としたが、従わなかったので、伊邪那伎命は大いに怒り"汝不可住此國"と。

そこで、速須佐之男命は天照大御神のもとに參上。山川悉動國土皆震の態。天照大御神は驚き。我國を奪いに来たとして対応。
 解御髮 纒御美豆羅 而
 乃 於左右御美豆羅 亦 於御𦆅 亦 於左右御手
  各纒持
八尺勾五百津之美須麻流之珠

二神は宇氣比[誓約]
速須佐之男命は、
 天照大御神の左の御美豆良に纒はしし所の
 
八尺勾五百津之美須麻流珠を度したまへと乞ひまつりて、
 ・・・於吹棄氣吹之狹霧 所成神 御名 正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命
 亦、右の御美豆良に纒はしし所の
 
を度したまへと乞ひまつりて、
 ・・・於吹棄氣吹之狹霧 所成神 御名 天之菩卑能命
 亦、御𦆅之珠に纒はしし所の
 
を度したまへと乞ひまつりて
 ・・・於吹棄氣吹之狹霧 所成神 御名 天津日子根命
 又、左御手に纒はしし所の
 
を度したまへと乞ひまつりて
 ・・・於吹棄氣吹之狹霧 所成神 御名 活津日子根命
 又、右御手に纒はしし所の
 
を度したまへと乞ひまつりて
 ・・・於吹棄氣吹之狹霧 所成神 御名 熊野久須毘命

と言うことで、五柱の神が生まれた。この神のなかに、後世の天皇家の祖が含まれる訳である。

天照大御神 天岩戸隠れの場面でも登場する。
 玉祖命を科し、八尺勾瓊五百津之御須麻流之珠を作ら令め

天降りでは、玉祖命(玉祖の連らの先祖)を含む五柱の伴に、三種の神器が加わる。
 於是 副賜其"遠岐斯" 八尺勾 鏡 及 草那藝劒

天降り後の子孫、山幸彦が航海して訪れた土地では、豊玉毘賣の從婢が偶々水を酌んだ玉器にその光った姿が映ったので発見され、その水を求める。
 不飮水唾入此
 是不得離故任入將來而獻
  爾 豐玉毘賣命思奇出見

そこから結婚へと繋がる訳である。
火遠理命┬豊玉毘賣(海神の娘)
┼┼┼┼└─天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命
┼┼┼┼┼┼〃┬[叔母]玉依毘売命
┼┼┼┼┼┼┼├─五瀬命
┼┼┼┼┼┼┼├─稲氷命
┼┼┼┼┼┼┼├─御毛沼命
┼┼┼┼┼┼┼└─若御毛沼命
┼┼┼┼┼┼┼┼┼/豊御毛沼命神倭伊波礼毘古命
ここでの、は魯之寶玉""という意味らしい。

天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命の誕生譚では、豊玉毘賣命の歌で、その玉が再び登場する。
 其伺情不忍戀心 因治養其御子之縁 附其弟玉依毘賣而獻歌之・・・
 
阿加陀麻波 袁佐閇比迦禮杼
 
斯良多麻能 岐美何余曾比斯 多布斗久阿理祁理 爾其比古遲
白色は赤色のようには光らないけれども、貴人が身に着ければ尊いものになると言うことで、玉の意義を語っている。

大国主命こと八千矛神は高志國 沼河比賣の地に婚はむということで幸行。
翡翠の産地糸魚川を擁する"越"の制覇に乗り出した行為なのだろうが、賢しく美しい姫という記述だけで、玉の話はない。沼河の"翡翠玉"は、不老長寿のお守りとして、知らぬ人無し状態だったから言うまでもないということか。・・・
[「万葉集」十三巻#3245]
 天橋も 長くもがも 高山も 高くもがも
 月読の 持たる変若水 い取り来て
 君に奉りて 変若得しむもの

反し歌[「万葉集」十三巻#3246]
 天照るや 日月のごとく 吾が思へる
 君が日に異に 老ゆらく惜しも

[「万葉集」十三巻[#3247]
 沼名川の 底なる玉
 求めて 得し玉かも
 拾ひて 得し玉かも
 惜しき 君が
 老ゆらく惜をしも


   表紙>
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